狂演
その日、家に帰るまでの道のりがいやに長かったような気がしたことだけは覚えている。テンプレート的なOLとして働いている私にとって、これは異常なことであった。
時計が定時を指した途端に鞄を手にして「お先に失礼します」と誰にともなく頭を下げ、颯爽とスカートを翻しているときの気分と言ったら、気持ちいいとか開放的だとか、そんな言葉じゃ表現できないほどの快感である。それなのにその帰り道が長く感じるということは、アインシュタインは相対性理論で時間と空間、そして気持ちとの関係性を証明することは出来なかったということだろうか——いや、そんなはずはない。異常なのは私の頭の中だった。
「お姉さん、ちょっとこちらに来てもらえませんか」突然、そんな声が聞こえたかと思うと、スカートが見えない力に引っ張られているような感覚になった。「こちらに来てください、こちらに」
何が何だか分からない私の頭の中では、ともかくスカートは会社からの支給品であるから、何としても守らなくてはならないという考えだけがぐるぐるとしている。スカートが破けてしまうなんてことがあったら、私は一体どうなってしまうのか分かったものではない。
「ちょっと、引っ張らないでよ」
「ねえ、ほら、早く早く」
「待って。お願い、手を離して。スカートが伸びちゃうじゃない」
「はやくはやく」
ふとスカートを掴む強い力と、私をずるずると引きずるような感覚が消えた。そして何の気なしに顔をあげた途端、思わず口元を押さえ、膝から崩れ落ちてしまった。そこはどうやらサーカスの練習場のようだったが、私が知っているサーカスとは少し様子が違う。「一体誰がこんなことを……」
その場所で行われていることの意味を考えているうちに、背筋にゾゾっと冷たい何かが走った。私は一度目を瞑り、俯いて考えた。そしてもう一度顔をあげ、いつの間にこんな場所に来てしまったのだろう、と辺りをきょろきょろと見回した。意識がスカートに向けられていたからか、私は自分がこの声とともにどこに向かっているのか全く分からなかったのだ。
それにしたって、こんなに不気味な場所なのだ、足を踏み入れた瞬間に逃げようと体が反応したっておかしくはない。どうして私は逃げ帰ることもせず、じっとここで何かが始まるのを待つみたいに、ただここに存在しているんだろうか。
ひやりとした手が、私の手を握った。驚いてそちらを見ると、足元には数人の子供たちが私を取り囲んでいる。
「お姉さん。もっと近くに寄ってもらえませんか」
「え……いや、私はここでいいわ」
「嫌よ嫌よ。お姉さんに見てもらうためにこうしたんだもの。もっと近くに寄って」
「寄って寄って」
「近づいて」
「ちゃんと見て。ちゃんと聞いて。ちゃんと感じて」
子供たちは再び私のスカートを引っ張って、どこかへ連れて行こうとしている。今度は行く先をきちんと目で追える。どうやらその先にあるメインステージのような広場の一番前の列に案内しようとしているようだ。「ちゃんと見て」「ちゃんと聞いて」「ちゃんと感じて」
「ねえ、聞いてもいいかしら」
「なあに?」
「あなたたちは、どうしてこんな場所にいるの?」
私のこの質問に、子供たちは一様に閉口した。まずいことを聞いてしまったかと質問を変える準備をしているうちに、その中で一番背の高い男の子がこう言った。「それじゃあ、お姉さんはどうしてこんな場所にいるの?」
「それは……あなたたちに無理やりここに連れて来られたから……」私はそう答えたが、口の中には苦い味が広がって、その先は言葉にならなかった。一体どうしてこんなことになってしまったのか……私は子供たちを早くここから出してあげなくてはと思った。そしてそれを伝えようとしたとき、子供たちはタガが外れたように口々にこう言った。
「でも逃げなかったよ」
「心配していたのはスカートのことばかり」
「私たちじゃなくて」
「スカートが破けることの方を怖がってたよ」
「ねえ、どうして」
「お姉さんはどうしてこんな場所に来たの?」
「どうして?」
「どうして?」
「それは——」私の意識は次第に薄れる。靄がかかり、カーテンが下りる。カーテンは幾重にも重なって、最後に上からゆっくりと終演の幕みたいにゆっくりゆっくり、暗闇が下りてくる。
再びこの世界を理解出来る程度の意識が戻って来た時、私は、もはや私ではなかった。もちろん、体も頭も同じなのだから、私は私だという自覚はある。だが、私ではない。目をかっと開き、子供たちの瞳を一人一人、じっくり丁寧に見つめていく。これから何をしようとしているのかが分かるのに、私は私を止めることさえ出来ない。私と目が合った子供から、やがて蕩けたような、惚けたような顔になり、そしてみな自分の意志でステージへと上がっていく。ダメよ、行っちゃダメ! その声が喉に張り付いたまま、息が出来なくなる。それなのに、私は私の喉を使って、言葉を発している。私のモノではない、私の言葉。
「ここは私が望んで足を踏み入れた場所。あなたたちは私の分身……さあ、ダンスを踊りましょう……ステップを踏みましょう……ワン、ツー、ワン、ツー……」
子供たちも私も赤い涙を流して笑いながら、夜が明けるまで踊り明かした。