第二話
家の庭に繋がれている馬が怯えた悲鳴を上げている。レティシアは父と母が話していた狼の噂を思い出してハッとした。
もしや、狼に襲われているのでは無いだろうか。レティシアは慌てて外の様子を確認しようと立ち上がる。
「お父さん、お母さん!私が見てくるよ!」
「ダメだ!」
普段から温厚な父にそう強く言われてしまうと、逆らうのは難しい。怒られてむくれたレティシアが渋々と椅子に座るのを見ると、父はキッと吊り上げていた眉を下げて、優しく微笑む。
「父さんが見てくるから、レティシアはお母さんと待ってるんだぞ?」
「うん……。」
父が暖炉の火かき棒を持って扉に向かう。すると、馬が一段と大きな悲鳴を上げた。その直後、どん、と大きな何かが倒れる音がして、それっきり静かになった。
「お父さん……」
不安げに父を見上げるレティシア。しかし父は大丈夫だと言って扉を開け、外に出ていく。
(大丈夫、大丈夫だよ。だってお父さんが大丈夫って言ったんだもん。)
怯えるレティシアの頭を母が優しく撫でてくれた。母は何も言わなかったが、大丈夫よと言うような眼差しでこちらを見ている。その眼差しが優しくて、何故かほっとした。こくん、とレティシアは微笑んで頷く。
しかし、そのすぐ後、外から父の叫びが聞こえてきた。
「レティシア!母さん!逃げろ!!…うっ!」
ドカッ、と何かが扉にぶつかった音がする。
─────グルルルルル……、
獣の唸り声のようなものが扉の向こうで響いている。
「うあああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
バンッ、と扉に何かがぶつかり、父が絶叫を上げた。
「……おと、う、さん……?」
「レティ!行ってはダメ!」
母は、フラフラと扉に近づこうとするレティシアを腕を掴み、部屋の奥へと引っ張っていく。
ドンッ、ドンッ、と扉に何かがぶつかる度に父の呻きが聞こえてくる。
(お、お父さん……が、扉を、守ってる……?)
扉に近づこうとする何かを、父は身を呈して、自分を身を囮にして、防いでいるのでは無いだろうか。
どん、どん、と何かがぶつかり続け、扉は今にも壊れそうだ。
「レティシア!こっちに!」
「お母さん……。」
母は、レティシアを家自慢の柱時計の前に連れてくる。怯えて目に涙を浮かべるレティシアの両手を強く握り、眉を下げて優しく笑った。
「この柱時計はね、お父さんとお母さんが結婚した時に買ったものなの。」
「おかあ、さん……?」
「二人で時を重ねて行けますようにって思いを込めて。」
母は柱時計のガラスの戸を開ける。
「レティシア、入って。何があっても決して声を出してはダメよ。」
「いや…、お母さん…っ!」
半ば無理やり時計の中に押し込められる。時計の中は狭い。しかし、しゃがめば何とか隠れられそうだった。母の手によってパタン、と戸が閉じられる。
ガラス越しに母の微笑みが見えた。
「レティシア、愛してるわ。これまでも、これからも。」
「お母さん…、」
ドカッ、と大きな音がして木の扉が折れた。ゴロン、と大きな肉塊が家の中に転がり込んでくる。それが父だと分かるのに時間はかからなかった。
何かが、転がっている父だったものを跨いで家の中に入ってくる。
暖炉の灯りに照らされたその「何か」は獣の唸り声のような声を上げながら、家の中を見回すと時計の前に立つ母に狙いを定めた。
「何か」は、夕飯が置いたままの食卓に乗り上げて、木皿や鍋を蹴飛ばしながら母に近づく。
「オンナだ……、オンナのニクは…ウマイんだよなぁ…」
その「何か」が発したのは地の底から響くような低くしわがれた声だった。
「オンナ……、喰わせろ……!」
そう言い終わるや否や、その「何か」は母に襲いかかる。びちゃ、とレティシアが隠れるガラスの戸に血がかかる。母の血で戸の外の光景は見えないが、ばりばりと枯れ木を折るような音や、痛みに叫ぶ母の悲鳴が聞こえてくる。
「ぁ、ぁああああああああ…!!」
────バキッ、ゴリッ、ミシミシ…。
母の肢体がバラバラにされる音が、チックタックと鳴る時計の音に混ざってレティシアの耳に届く。
ひゅうひゅう、と言っているのは母の息の音だろうか。恐怖と絶望にガタガタと震えるレティシア。
しばらくの間、「何か」が母の肉を屠る音がしていたが、突然その音が止んだ。
「アァ、もう来タカ……」
「何か」はそう呟く。その後、大きくガタン、と音がして、静寂が訪れた。
聞こえるのはチックタックと響く音と、レティシアの怯えた呼吸。そして、今にも消えてしまいそうな母のかぼそい息。
「……レティ…シア…?聞こえる……?」
血まみれの視界に聞こえる細い母の声。絶望の中に聞こえる小さな安らぎ。地獄に垂らされる蜘蛛の糸。でもレティシアはその糸が切れることを知っていた。
「……レティシア、あれ、は……もうどこかに……、行ったわ…。でも、まだ……出ちゃダメ…よ…」
「お…母、さん…っ」
今にも消え入りそうな母の声。どうして、こんなことになってしまったのか。いつもなら、今頃みんなで夕食後のお話をしていたはずなのに。
「レ、ティシア……」
血にまみれたガラスで母の姿が見えない。いや、見えない方がいいのかもしれない。
「……レティシア……だーいすきよ」
その声を最期に、母のか細い息は、聞こえなくなった。
チックタックと時計は時を刻み続ける。
チックタック、チックタック。いつまでその音を聞いていたのだろう。
カチリ、と針が動いて、ボーン、ボーンと時を告げる鐘が鳴った。
ここからレティシアの物語が始まります。長くなるかもしれませんが、よろしくお願いします。