第31話 『王子妃教育』
私の足は疲労していた。
それは9年もの間ほとんど運動もしてなかった足を約二ヶ月近く酷使しているからに他ならない。
背筋を伸ばし、顎を引けば自然と腹筋と背筋に力が入る。履き慣れないピンヒールは尽く私の足指を締め付ける。
「重心が斜めになっているわよ!」
「くっ………!」
お母様の怒声を聞き、さながら魔王に屈する勇者のような呻き声が漏れた。
王子妃レッスンははじめてから早くも二ヶ月が通過した。やっとピンヒールに履き慣れて、真っ直ぐ歩けるようになったと言うのに今日はなんと頭に本を乗せてきた。
貴族って本当にこんなのするんだ。
「お母様! 私は最近やっと真っ直ぐに姿勢よく歩けるようになったのにあんまりでは!?」
「甘えたことを言うんじゃないわ! そんなの出来て当たり前よ。口答えするならあと二冊増やすわよ!」
「ひぇぇぇぇ!」
悲鳴を上げたらバサバサと音を立てて本が落ちた。「もう一回」と冷たいお母様の声が響く。
それから同じホールにいるウィルの方を振り返って目を吊り上げた。
「ウィルも早くステップを覚えなさい! いつまでお遊戯をしてる気?」
「ひ! はい!」
侍女と踊っていたウィルはしごかれる私を見て顔を青くしていたが、今は青を通り越して白くなってしまっている。
先生モードに入ったお母様は怖い。
だが、それが私達のためを想ってしてくれていることは重々承知している。レッスンを頑張ったら、頼んでもないのに三時に部屋にスイーツが届く。お母様がしていることだとお父様からこっそり聞いた。ウィルの部屋にも届けられているらしい。
「シリィ。そろそろ二時間だ」
「……もうそんな時間かしら?」
突然扉が開いて眼鏡を掛けたままのお父様が入ってきた。仕事中だったようだ。
「きっちり二時間だよ」
「貴方が間違っているんじゃないの?」
「約束は守って貰わなくては困るな」
「まだ今日教えるべきことは終わってないのよ」
お母様が珍しく反抗した。
こういう時、いつもは大人しく部屋に戻って暫くしたら午後のレッスンを始めるのに。
どうやら今日は体調がすこぶる良いらしい。お母様は気分が良いとすぐに調子に乗る。
お父様がスッと表情を消した。
お母様を盗み見るとしまったと顔をしかめている。
「シリィ。あまり僕を怒らせるな」
お父様が深いグレーの瞳を細めればお母様はみるみるうちに小さくなる。でも、お父様が自分を僕と呼び、お母様がわがままを言うのは昔の両親を見ているようで子供としては楽しい。
「ベル、ウィル、今日もよく頑張ったわね。ベルはこれからマーティン先生の授業よ」
「え!? 今日でしたか?」
「これからは週に三回来てくれるそうよ」
「やったあ!!」
さっきのレッスンも忘れて跳んで喜べばお母様は呆れたようにため息をついた。
「ベル、貴女……」
「あ、ごめんなさい……」
「まぁ、良いわ。これから矯正していけばいいんだもの」
お母様がにっこりと屈託ない笑みを浮かべるので嫌な悪寒がした。
「午後からはウィルとベルで踊ってもらうわ。そのつもりでね」
そういうとお母様は大人しく踵を返して部屋に戻っていった。
「では、今日の授業を始めますよ。ベルティーア様」
顔にシワを寄せて笑った目の前のお爺ちゃんは優しそうに見えて数多の教え子を持つ国内でも有名な国学史の先生である。
ヨハネス・マーティン先生。
「よろしくお願いします。マーティン先生」
「いやはや。私は多くの貴族の家庭教師をしてきましたが、ベルティーア様ほど礼儀正しい方は初めてでございます」
マーティン先生は自慢の白髭を撫でながらにこにこ笑う。白髪とシワの寄ってしまった瞼からはマーティン先生の元々の色彩は分からない。
「この前の歴史は覚えていますかな?」
「勿論です! 約500年前に我らが母国、ヴェルメリオ王国が建国されました」
「国が建国される前に戦争がありましたね。その戦争とは?」
「ヴェルメリオ・ガルヴァーニ魔法戦争です」
「素晴らしい。よく復習できています。今日はそのヴェルメリオ・ガルヴァーニ魔法戦争の背景を学習しましょう」
お昼前の一時間。
王子妃教育が始まってから導入された歴史の授業。王家に嫁ぐのだから国の歴史を知らないと話にならないと言ってお母様が先生を雇って始まった。
私は元々勉強が出来る方ではない。
前世でも中の中で常に平均点だった。
今はベルティーアだし、ずる賢そうだから意外と天才肌かも? と思ったりもしたが全くの期待外れに終わったのだが。
しかし、それでも先生の歴史の授業はとても楽しい。だって異世界の、しかもまだこの世界の半数の人間が魔法を使えた世界だよ!? 物語を聞いているみたいで楽しすぎる!
わくわくと目を輝かせて先生の話を待っていると、先生がふぉっふぉっと仙人みたいに笑った。
「太古の昔、魔法を使えるのは王族だけではありませんでした。人類の半分が魔力を所持し、魔導師や魔女。錬金術師もおりました」
「先生! 別の資料では王族の力は魔力ではなく聖力と書かれてありました。他のを見ると神力や魔術、超能力などさまざまな記述がありました。どういうことでしょうか?」
私が挙手して質問すればマーティン先生は嬉しそうに笑ってうなずいた。
「さすがですな。よく勉強していらっしゃる。正直に申しますと王族の力の正式な名称はございません。敬意を払い、敬うならば特に呼び方は問いませぬ」
「そうなんですか」
「100年前頃から魔法と呼ばれることが多くなりましたが」
マーティン先生は咳払いをして話を戻した。
「魔力を使える人間は半分から、時が経つにつれてさらに減りました。原因は分かりません。ただ言えることは、魔力は継承できず代が重なると薄まることです」
「それほど貴重なものなのですね」
「そうです。しかし、他の魔術師たちの魔力が薄くなっていく中でヴェルメリオ家とガルヴァーニ家だけはその魔力を保持したままでした」
先生は教科書をトントンと軽く叩く。
「当たり前かもしれませんが、現在でもガルヴァーニと言う言葉は良しとされません。一家全滅したという資料もありますが、分かりませぬ。文献は500年前から消失してますゆえ」
先生がため息をついて首を振った。
「ガルヴァーニ家とヴェルメリオ家が戦争を始めたのは単純に領地を得るためです。強き者は上に立つ。ガルヴァーニ家とヴェルメリオ家は互いに国を治めていましたから、目障りだったのでしょうね。魔力を使えるのもその頃になれば二つの家だけでした」
先生はボードに大陸を書いて真ん中に線を引き、二つに分ける。北の方をガルヴァーニ。南の方をヴェルメリオと書く。
「そして勝ったのがヴェルメリオ家です。文献では、ヴェルメリオ家は攻撃型の魔法が。ガルヴァーニ家では精神干渉型の魔法が得意だったようですよ」
「凄い……。私たちには想像できない世界ですね」
「全くですわい」
先生も興味があるのかゆっくりと白い髭を撫でた。そこで私はある疑問が浮かぶ。
「あの、先生。ヴェルメリオ家は全く魔力が薄まらなかったのですか?」
「いいえ。徐々に薄まってはいるようです。その証拠に500年前のヴェルメリオ国王陛下と現在の国王陛下では魔力量に差があると統計で出てますからね」
「え……。それではいつか魔力が無くなると?」
それは不味いのではないだろうか。
大陸では今一番ヴェルメリオ王国が大国で、他の小国を制圧しているような形だけどそれは一重に王家が魔力を使えるからである。
他にも大陸はあるし、魔力がなくなればこれ幸いと攻め込んでくんじゃ……。
そう意見を言えば、先生は驚いたように目を見開いた。そこで先生の瞳が青色だったと知る。
「素晴らしい! よくぞそこまで考えて下さった! そうですな。ある意味この国は不安定。勿論、その為に資源も貯えておりますし技術も高めておりますがやはり国民の意識の差ですかな。中々技術は上がりませぬ」
マーティン先生は手を叩いて喜び、そして嬉々として話し出した。
「けれども、時々現れるのですよ。天の配剤とでも言いましょうか。『先祖返り』と呼ばれる者が」
「『先祖返り』ですか?」
「そうです。この国では約250年前にアルティーニャ国王陛下が先祖返りであったと言われております。先祖返りとは先祖と同等の魔力を保持し、知識と記憶を持つ者でございます。しかし、個人差がありまして魔力も記憶もそのまま持つ者も居れば、魔力のみだったりする未完成な『先祖返り』もおります。特徴としてはちとくせ者が多いことでしょうかな」
マーティン先生はケタケタと笑って本を閉じた。
『先祖返り』か……。なんとなく聞いたことはあるなぁ。先祖と同じくらい魔力を持つと言うことか?
「私はディラン第二王子殿下も『先祖返り』だと思いますが」
「え? 王子がですか?」
「えぇ。かつては学者の間でも囁かれておりました。恐らく殿下も『先祖返り』に近しい者でしょう。魔力のみを受け継いだようですが、魔力量が多く、物の呑み込みが早いと聞きました。恐らく先祖の知識の賜物だろうと思われます。ああいう特異種は特別扱いが難しい。恩恵にもなれば災いにもなる。非常に厄介なものですわ」
「頑張ってくだされ」と先生は私を見つめて笑った。笑っているが、なんとなく注意しておかなければならないことには気がついた。先生の雰囲気が一瞬ピリッとしたから。
長年生きている先生には私にはまだ理解できないことがわかるのかもしれない。
「『先祖返り』を暴走させてはなりませぬ」
「え?」
「おぉ、もう時間じゃ。それでは、ベルティーア様。今日も有意義な時間をありがとうございました」
「いいえ! こちらこそ態々足を運んで頂きありがとうございました」
先生はしわしわの顔をさらにしわくちゃにして帰っていった。
次の授業も楽しみだ。