大人になるという事は
大人になる事はとても残酷だって思う。
だってたった20年という月日を過ごしただけで誰もが成れてしまうんだ、その人の事を置き去りにして。
20歳になったからと言って本当に大人になったって言えるんだろうか。
確かにやれることは増える。けれども責任を背負わなくてはならなくて、選挙とか、税金とか、そういった事がどうしてもいきなり現れた様でなんだか嫌な感じがする。
例えるんだったら梅雨の時期に涼しいところから外に出た時ぐらいのあの嫌な感じ。
私は総じて死にたがりだったと思う。
それでもそんなものすごく死にたいとか、自傷行為をしまくるみたいなことではなくて、ただ漠然と。だから想いはあってもそこまでたどり着くのが何だか億劫で。
もしかしたら死ぬのが一応怖かったからかもしれない。でも、一番の理由は理由がなかったから、なんだと思うんだ。
生物の構造がより複雑になっていくことを進化と仮定したのならば、その過程で発生した内なる声とやらと元始から備わってきた本能とどちらを優先すればよいのでしょうか。
理性は死を望んでおります。しかし同時に理由を求めているのです。では、この願いは本能によるものなのでしょうか。
――我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。
私は決して頭がいいというわけではなかったから、大昔の人が一生懸命考えても解らないことを考えるのが何だかめんどくさくなってきてしまったので適当に理由付けして今でも自分を生かしているんだ。
もしかしたら、そうやって見切りをつける事が大人になるということなんかじゃないかと思うんだ。
でもそれはなんてヘタレでどうしようもないのか。
だから、せめて生きるという事に理由が明確に提示されていればなんて思ってみるけれど、20年っていう明確なものを提示されていても大人になることに対する自覚も覚悟もなんも浮かばない自分に取っては全くの無意味なのかもしれない。
私は物事を覚えられない。
というのも、たった数日で何がどんなだったのかという情報が繋がらなくなってしまう。
例えば人の顔とか、何話したかとか。人と話すのが億劫で長期休暇が終わるのが本当に嫌でたまらなかった。
幸いなことに長い期間会話していない人でない限りはなんとか話しているうちに経路を思い出していく事ができたし、長く一緒にいる人であれば簡単に思い出せたので滅多に困ることはなかった。
でもそのことに、あぁ私は冷たい人なんだな、と思うんだ。
だってそれは自分がたった数日でどんな親しい友人でも親類でも他人に成れてしまうという事で、対策しようとすればできるのに自分はなんにもしようとしなかったからで、何よりも私は誰かに対する恋心も愛情も忘れてしまえることに気づいてしまったからで。
私は道路工事が好きだ。もちろん作る方ではないし、マニアっていうほどでもない。
ただたまに作業しているのを見つければわざわざ立ち止まって眺めるっていうぐらいには好きなんだ。
剥がされて、均して、敷いて、また均して。青灰色の道が艶やかな黒色に変わっていくさまが本当に面白いんだ。
工程の中でも一番好きだったのが、アスファルトを敷いて行く作業だった。
アスファルトが流れ出る音。
バーナーの炎がアスファルトに押し付けられて赤くなる音。
名前がわからないダダダダダっていう奴。
湧き上がる独特な匂い。
それが全部好きだった。
いつからだろう、そういった好きな事に昔ほどの感動を覚えることができなくなってしまった。好きだったはずのモノがむしろ逆にひどくつらいものだって思うようになってしまったんだ。
だからこの時ほど、たった少しの年月を過ごすだけでもやはり人は変わってしまえるんだ、という事が理解させられたことはなかった。
ならもうやめればいいのに、と思うけれどどうしても未練がましく眺めてしまうんだ。だってやっぱり昔をどうしても忘れられないから。
そんな感情はまるで恋煩いの様だ。
大人になるという事はもしかしたらノスタルジーに苛まれるという事なのかもしれない。
もうしそうだとしたらなんて報われないんだろうか。
成人の日に出そうと思っていた奴。
スケジュール管理って大事だね。
追伸:ルビふりを忘れていました(編集済)