初めての……
♪通りゃんせ、通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
行きはよいよい帰りは怖い
怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ♪
西山公園、展望台へと続く『祈りの道』
石像を一つ一つ通り過ぎる度に、また一つ下界の音が吸い込まれていく山道。
寒さに耐え忍ぶ草木に見守られ、薄日が覗く青空へと奈海は登って行く。
「着いた……」
怖い道を一人で通り抜いた達成感もさながら、今日ここに来た意味も合わさって、奈海の頬は赤く染まっていた。
一人では初めての場所――しかし、奈海の心は独りではない。これからここで、一八年の生涯で初めての出来事が待っているのだ。
嬉々とした目で雪化粧の反射を受け、階段を上がり、颯爽と鯖江の街を見下ろす――
初めて見る景色だった――
どこまでも広がる厚い雲――
雲に覆われまいと光が注ぐ強い世界――
重い雲を透かして届く冬日の存在がふんわりとした空を成して――そこから一つ、ほろほろと落ちてくる柔らかなぼた雪。
差し伸べた手の中から消えていく淡い存在は何を奈海に語りかけるのか――
「真崎君、今は何をしてるんだろ?」
いずれ来る人を想い、奈海は山からの風景をフェイスブックにあげた。
色が溶けていく世界。その中に一つ、紅い色をふと見つけた。雪の重石をまとわせても尚、誇らしげに色を囃す花――椿――
「ふふ」
自分と同じ花を見つけて思わず微笑んだ。
周りの蕾よりも早く咲いて、一人ぼっち。仲間が来るのをひたすらに待つ。でも、辛さは微塵も感じない。寧ろ、誇らし気――奈海もそうだ。今日という日のこれからの未来を想像する時間が、とても心地よかった。
「これもあげとこ」
初めての景色をこれからの景色に繋げようと、気になったものは片っ端に撮ってフォルダに収める。時の経ち方を忘れるまでに撮っていると――約束の時間が追いついて来た。
「真崎君、遅いなぁ」
一筋の吐息を、未だ来ぬ人へと送り出す。
音が溶けていく世界で、風に乗った木霊は何処まで運ばれるのだろう?
願わくば、あの人のもとへとすぐに届いて、私のもとに返ってきますように――
奈海は真崎のフェイスブックを覗いた。
更新は何もされていなかった。
「ここまで都合よくいくわけはないか」
マメな人ではない。ノーコメが準備中の人だ。自分は早めに行動派。彼は遅れるのがデフォ。分かっているから不安はない。
二人っきりで会う初めての約束だからこそ、これがいつもの真崎の姿だと信じたい。
いつものことがいつものように行われているだけだと。敢えて日常的行動をしているだけと奈海は思いたかった。
思い……たい……思って……思……
約束の時間を一時間も過ぎてしまった。
奈海の目には風景など何も映らず、腕時計の針と、スマホ画面を三分おきに見る癖が映えてきた。
そして――
「バッテリーが……残量が……」
馳せていた想いはWi-Fiがあと何回起動したら底が尽くかという計算に駆られていた。
導いた答えは――あと一回。
次に起動したら最後、Wi-Fiはガラクタに、スマホはただの通信機器に成り下がる。
あと一回、ラストチャンス。
奈海は息を整えタッチし目的のページを一瞬で見納めすぐに閉じた。
呆然と空を見上げる奈海にするすると雪は落ちてくる。
何も変わってはいなかった。
ラインも、未読のまま――
雪は落ちて溜まるのに、奈海の心は栓が抜け落ちて、何も残ってはくれなかった。
『真崎君。一緒に西山公園に行かない? 植物に動物、道の駅もあって真崎君の好きな物いっぱいの場所だから、きっと好きになれると思うんだ。私でよかったら案内するよ』
告白も兼ねた言葉だった。
彼の趣味に便乗――いや、悪用しただけだったのかもしれない。
零れる涙で空とビルの境界が滲んでいく。何もない景色、何もない心。残ったのは――後悔と懺悔。
素敵な人と一緒にいたいと思っただけだった。あの人の隣で、図鑑片手に考え込んでいる時に茶々を入れるのが楽しかった。大学内で仲間といる時も楽しいけど、そこから外れて――二人きりの温度を感じてみたいと思ってしまった。
些細な言葉に見せかけた勇気の塊は、沈黙という拒否の返事で閉められた。
それからは、あっという間だった。
長針が秒針と同じ速度で回っていく。
ただでさえ曇っていた空は光も失くし、ついには夜の帳を包む巨大な天幕と化した。
「帰れない……暗いの……怖いよ……」
ぐしゃぐしゃに奈海は泣いた。この日にとセットした髪は崩れ、奈海の心は潰れた。
フラれたショックは三時間も突っ立っていれば充分だった。ギシギシした足取りでもふらふらと歩くことはできたから。
しかし、帰るとなると話は別だ。
帰るには来た道を通らなくてはならない。
終わりのない石像が並び立つ道――希望がなくては近づくことさえできない道を、絶望に包まれた自分がどう進めようか。
虚しさが飽和する胸に沸き立つ恐怖。
何もない心に宿る、何かのいる気配。
受け入れ難い現実を通り越した情けない現況に、奈海は歩き方を忘れてしまった。
無念の涙が一段落した頃、斜面の向こうの椿が見えた。咲き誇っていた紅い花は雪の重みで地面に落ち、今はただ空を仰ぎ見ていた。
「こんなところまで同じだなんて……」
紅い花は白い雪の中――姿は段々と蝕まれ、ついには無へと成し遂げられる。
このまま自分もあの花と同じように埋もれてしまいたい。何も感じられなくなれば何も思うことなく山を下り、何も見ずに家へ帰れるのに――
音も色も浸食された世界に一人ぼっちの奈海。しかし、光が見える。
煩わしくて目を背けようとしたが、思い患う今となっては意味のない時間と薄く嗤い――重い瞼が、荒んだ瞳を差し向ける。
すると、視線の先には夜景があった。
夜の道を照らす色とりどりの明りと、人の営みを見守るほんのりとした灯り。
それらは連なり、やがて煌めき、深い闇の中枯れることなくどこまでも続いていく。
初めて見る景色だった――
見たことのない絢爛に満ちた世界に呆然と立ち尽くしていると、スマホが鳴った。
見惚れていたため意味が分からず、条件反射でタッチして耳にあてた。
「…………真崎君!」
スマホの向こう側には真崎がいた。
物理的には何処にいるか知っていても、心の中からはいなくなった人の声が奈海の胸に浸透する。
「うん……うん……」
腫れた想いは融け、奈海は静かに真崎の言葉に耳を傾ける。
「それなら真崎君、私――」
真崎の様子を知り、声を出した時だった。
ブツリ!
スマホは予告なしにバッテリーを落とした。
何も聞こえなくなる代わりに風の音を聞いた奈海は事を思う前に駆けだした。
夜景にサヨナラをし、階段を降り、細く暗い道へと入っていく。
怖いと思うよりも先に思うことがある。
『奈海ちゃん、ゴメ、ゴッゲホ。昨日から俺、熱40度で、ゴホッ、目が覚めたのもついさっきで、グッ、福井の冬を舐めてた――』
南国の高知から来て、雪国の底冷えを一思いに知ってしまった真崎は布団から動くこともできなかったと言う。
(私が今すぐに行くから――)
気風よく、カラカラ笑っていた真崎の声はガラガラに嗄れ、痛ましく摩り切れていた。
(だから、真崎君は安心して寝てて――)
奈海は行った。真崎の下宿先へ――
真崎の身を案じる奈海にこの道はもう、帰り道ではなくなった。奈海の目に映る石像はもはや恐怖の対象ではない。
通りゃんせ、通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
行きはよいよい帰りは怖い
怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ
街灯の標を頼りに疾走する奈海の傍らには石像が並んでいた。
雪の中に沈むそれらは何も言わず、唯々静かに、奈海の暖かな瞳を見送った。
奈海は山を下り、車のエンジンをかけた。
バックミラーで後ろを確認すると、二つの紅い花が見えた。
花よりも頭の中にあるのは真崎の容体――
小さな蕾からそっと開いた二つの椿は奈海の車が走り去るのを見つめ、石像と同じく、雪の中にそっと隠れた。
終