帰宅して後
王宮を辞し馬車に揺られている目の前の華奢な妹の左腕を見遣り無事を確認するが怒りが到底収まらん、
「お兄様、そのように怒らないで下さりませ、従者達が怯えております」
焼け落ちた筈の左手は扇に添えられ、今は何事も無かったかのようだが俺は奴の仕打ちを到底許せそうには無かったのだ。
「気の所為だろう、怒ってはおらん」
「いいえ、いい加減お怒りを鎮めて下さりませ、それよりお兄様」
「何だ?」
「王子様…いえ、ベオヘルグ様が兵として軍に入隊すると伺いましたが」
既に王妃のくちからベオヘルグの名は王籍より削られていると聞かされ、
妹は奴の呼び名を改めてこれからの事を口にした。
「あの愚か者の事なんかグラーシアが気にする必要は無いが、仕出かした愚行を反省させろと言うならそれなりに扱いてやるのも面白いだろうな」
元王子とはいえ軍に所属した平民の一兵士となった奴にそれなりの御礼をしてやらないとなと、誰を傷付け貶めたのか反省させるのも悪くないと料理法を考え巡らせるが、グラーシアの眉が顰められているのに気付くとまた叱られると知らず手を握り締めてしまう。
「あの方が誤解からとはいえ私と我が家を一方的に詰り恥をかかされました、
そして私を傷付けられたとお兄様はお怒りでしょうが火傷をしたのは短慮から王子に逆らって手を出した私の自業自得、
ですがあの方は愛して婚約破棄までして迎えようとなさられた女性に逃げられ失恋なさった上に勘当の憂き目にあって困っていらっしゃるのですよ、
それをざまぁ見ろとばかりに石を投げるような卑しい人間にはなりたくはありません」
「グラーシア…?」
「私は馬鹿だと笑われましょうが性根が卑しいと後ろ指を指されるよりも余程マシにございます」
教え諭す深い微笑み、グラーシアは妹でありながら何時だって母のような優しさを持って兄と俺を守ろうとし
何だって分け与え間違っていたら諭し立派な人間になれと導こうとする、
口癖は『お天道様に顔向け出来ない』という太陽の下を恥じて出れぬ身にはなるなという異世界の言い回しと
貧しく困難な運命にあろうとも心と魂まで卑しくなっては自分自身が自分を恥じるだろう、だ。
甘い菓子が貴重だというのも、口にする食糧も人の手をかけて生産された手間と時間と天地の恵みの賜物なのだという事も、グラーシアが歌うように教えてくれた事ばかり。
アラクネ玉を煮る鍋の前で歌うように紡がれ語る異世界の戦争や昔話にグラーシアがグラーシアでは無かった庶民の母であり妻だった記憶、そしてその体験から俺達兄弟と領民の子供達が真っ直ぐに正しい道を行けるように
狡い汚い考えを窘め高潔でありなさいと何時だって心の有り様を問うのだから
妹でありながらグラーシアの言葉には逆らえない。
「解ったよ、あの人が困る事があったらフォロー出来る位には注意しておくさ」
「そうして下さりませ」
父さんは俺とグラーシアの遣り取りを聞いてはいるが口を挟まなかった、
だとしてもそのまま許す気は無いらしく目を細めて小さく目配せをしてくるので妹に気付かれないように頷いておいた。
「そうだ、カルロ兄さんは?」
幼少の頃からグラーシアに果物や菓子を差し出され、
転んだとか擦り剥いたとかいえば必ず手当てをされていたカルロ兄さんが妹の一大事に駆け付けないとはおかしい…
倒れたグラーシアが魔導師の癒しとハイポーションを与えられて落ち着いたのを確認はしたが
すぐに王太子に呼ばれて後ろ髪を引かれながらも行ってしまったきりだ、
あの妹バカのカルロ兄さんだったら王太子を適当にあしらってここに居る筈なんだけど。
「カルロは王と王太子の命であの騒ぎの後始末をするそうだ」
苛立ちを含んだ父さんの答えに嫌な予感がするけれどグラーシアは言葉を額面通りに受け取って
身内の後始末なんてお兄様にお手間をかけましたねぇなんて呑気な発言をしているし、
やっぱ前世が動乱の時代だった所為でグラーシアは生死に関わらない事は大抵簡単に流す、そりゃヤベェだろうといった事も生きてりゃ何とでもなると受け流すから
舐められる事も一度や二度では無かったが、何故かグラーシアを馬鹿にしたり陥れようとした相手は必ずと言っていい程自滅しているんだよな。
それが異世界の神殿が広めた神の考えを示した言葉で『因果応報』ってやつらしいからだと
グラーシアは悪意に対して更に無頓着になるんだから困ったものだ。
そんな事を話している内に屋敷の門を潜っていたらしい、
馬車が止まり扉が開けば門の内側の庭に集まった人の波に何が起きたのかと集まった者共に問う前に代表と思わしき老人が口を開く。
「お嬢様が王宮で大変な目に遭いなすったと聞いていても立ってもおれずにご迷惑かと思いましたがこうして参上した次第で」
王宮の騒ぎを何故知っている?と不思議に思うがよく見れば代表の老人は
王宮警備に詰める衛兵の巡回担当をしている男の親父で城下で食堂を営んでいると挨拶された覚えがある。
「息子からお嬢様の一大事と聞きまして一目ご無事な姿を確認せねばと
聞き付けて集まった皆がこうして押しかけております」
老人の後ろに控えるのは皆、ファングル領から王都に出て来た者達で
ウチの屋敷とグラーシアを頼りに良く顔を見せ親しくしている連中だ、
口々安否を知ろうと上がる声を割るように馬車から降りようと父さんのエスコートで扉から顔を見せるグラーシア。
「この通り私は無事です、心配してくれてありがとう」
シャンと背を伸ばして微笑みを浮かべるグラーシアの姿に皆は安堵の溜息をつくのを確認してこれで民達の混乱も収まるだろうと
挨拶を受けながら玄関に向かおうとすればそこにはまた別の人波が、
そいつらは城下の者と違って貴族の家に使える身分にあるお仕着せ姿。
今度は何が起きたのかとウチの家礼が人を使って捌いている贈り物らしき花やバスケットを掻き分けて遣いに訪れたらしき者から
何の用で朝からウチに来たのかと聞くと、
昨夜の婚約破棄騒動の見舞いだと其々違う家から遣わされた筈だろう使者が揃ってグラーシアにと口上を述べた。
「それは丁寧に痛み入る、だが儂や娘も帰宅したばかり故
心遣いの礼はまた改めて致そうと思う」
グラーシアの手を取った父さんが使者達に告げて玄関へと足を進めるのに着いて行く。
ただ見舞いに遣わされたのでは無いのは俺でも判る、きっと昨日のグラーシアの振る舞いと婚約破棄を見てここに使者を出した奴等は
グラーシア自身の資質と価値に気付いたのと婚約破棄によってチャンスが巡ってきたと早速行動に移したんだろうな。
だとしたらこれから騒がしくなりそうだと面倒事の予感にウンザリしたが
可愛い妹を不幸には出来ないからなるべく頑張ろうとだけ決心した。