百年の重み
「驚いておるの、稀におる異世界の記憶を持って生まれた"転生者"は
様々な知恵を持っておる事が多く、
そのような兆候のある者が出たとあらば国への報告は義務じゃ」
「はぁ…でも昔の私はただ馬齢を重ねたのみの一老婆にございますれば
そこまで王家や国に貢献出来るとは思いません」
一介の婆に王妃様の期待するような学者先生や職人のような知識なんて無い、
繰糸紡績だって偶々家に出入りする業者や
小作の奥さんや娘さんから聞いたのを思い出しただけだ。
お母様が元気だった頃、隣国のタルミラン帝国侵攻との報せに
お父様が出陣した時だったわ、戦争が始まったと領地に戻り屋敷の側の森で
偶然見かけたのが討伐されたアラクネの死骸。
上半身が人間の女で下半身が巨大蜘蛛なんて女郎蜘蛛の化け物みたいな魔獣、
そのアラクネの織り成す巣を解いて集めた糸は絹糸のような光沢があり
魔法耐性がある布が織れる為、魔導師のローブに適している素材だという。
更には付与魔法との相性が良いとかで回復魔法と防御の魔方陣を仕込んだ生地は
暗殺等の危険回避の為の王族や高位貴族の装束の素材となったり、
遮蔽魔法を付与した布を城の会議室や貴族の執務室や
大きな商館の応接間の壁紙として利用されていると説明された。
だが、アラクネの巣は魔物が生息する森の奥にしか無いので
採取もベテラン冒険者でも単独では難しくパーティを組んで行くのが普通なのと、
一回の採取で採れる量が少なく布にする量なると恐ろしく高額になると
討伐したウチの庭師が言っていた。
高級素材となるのはあくまで巣の糸、アラクネ本体は巣にかかった魔物を喰らう
獰猛な生き物で人間すら餌にする為に餌欲しさに飢えたアラクネが
人里に降りて来たらすぐに討伐せねば危険だと、
庭師は無残にも下腹を斬り裂かれたアラクネの死骸をファイアで焼き払うからと
次々に庭の隅に積み上げてゆく。
生々しい傷から溢れた内蔵から覗く白く輝く繭玉大の物、
「男衆が留守だし糸玉を拵えておくか」
庭師は魚を捌く位の気軽さで死骸の腹を抉り白い玉を取り出すと
拳位ある巨大クルミ、こちらではカルオンと呼ぶ木の実の殻に嵌めた物を
次々に作っては木箱の中へ入れてゆくそれは何だと聞いたら
投げて使うトリモチボールだと言う、使い方は強盗に使うカラーボールと同じ。
魔獣にぶつけてカルオンの殻が割れると中の白いアラクネの糸玉が破れ、
糸玉の中身の瞬間接着剤のような液体が魔獣にかかると即座に固まるらしい
魔獣の身動きを取れなくする自衛の道具なのだとか。
そのアラクネ液がかかるとすぐ固まるが、一度かかると二度と取れなくなるとかで
魔獣から逃げるのにしか使えず刃物を使っても粘りが邪魔をして
素材の剥ぎ取りも出来ないので本当に自衛にしか使えない。
アラクネの糸玉は普段なら捨てる物だというが、その時の私は
白い玉が繭玉に似ているなぁと懐かしさから内緒で一掴み貰って茹でてみた。
忍び込んだ屋敷の台所、鍋に湯を沸かしアラクネ玉を煮てみれば
何故か薄膜の内の粘着液が凝り、段々と繊維質になってゆくのを見れば
後は昔取った杵柄、何個もの繭の糸を合わせて鍋から引き出す
糸繰りを夢中になって行う。
私は台所に忍び込んで内緒で鍋を使っていたつもりだったけど、
お母様は私がただの子供じゃあないのをとっくにご存知で
女中には危なくないように見守るだけで好きにさせろと言い含めていたらしい。
取った糸を巻く糸車も小わくも無かったので木の板を使って巻き取る、
やっぱり糸車が欲しいと呟いたら女中が現れて用意しますと叫んだっけ。
そうして貴重なアラクネ糸を簡単に取る方法を見つけたのだと
お母様も喜んで下さりながらも何で糸繰りを知っていたのかを問われ
前世とやらも含めて洗いざらい話したのよね。
お母様は小さい頃から兄三人に菓子を全て譲って甘い物を口にしないし、
だからと取った取られたと泣いたりする訳でもない
私を子供らしくない娘だと以前から気をつけていたみたいだけれど。
それで兄様達に全ての菓子を渡し自分が口にしなかった理由も
話さざるを得なくて…まだ小さかった兄様達が昔の息子とだぶるのよね。
その時分は戦争が激しさを増していた食料不足の時代の只中、
三度の食事にも困ってお腹を空かせていた息子達に
お菓子なんてとてもじゃあないが食べさせてやる余裕が無かった哀しさ惨めさ、
その後悔から遊び疲れてお腹が空いたと声を上げる兄様達に
取っておいた焼き菓子や果物を渡せば美味しそうに頬張ばり嬉しそうに笑うのだ。
それを見るのが好きだと答えればお母様は
ハンカチを目に当てシクシクと泣き出してしまったのには困ったのだけれども。
それからはお母様主導でアラクネ糸の量産をウチの産業にして
国を豊かにしましょうと言われましてアラクネ狩りをギルドに依頼して
最初は糸玉の採取をお願いしていたけれど、アラクネの数が足りないからと
テイマーを雇ってアラクネをテイムし牧場経営を始め繁殖させる方法に転換して、
アラクネの餌用の魔獣を調達するのにウチではゴブリン狩りの方がが盛んになって
畑を荒らされたり子供を攫われる被害に頭を悩ませていた農家が喜んでいたわね。
そうして製糸工場を建てて働く女工を募集すれば働き口の少なかった女にも
仕事が出来たと喜ばれ、母子家庭のお母さんや後家さんだけでなく
ファングル公爵夫人肝煎りの事業で
安心安全な職場だからと嫁入り前の娘さんまでもが殺到した。
孫が学校の課題図書だからと借りてきた本の感想が『元祖ブラック企業』なんて
野麦峠を越えて働きに出た娘さんの話なんか一部ではあったけれど
私の知るそうじゃない工場もあってね、
西洋風のハイカラな建物に最新のフランス式とイタリア式の繰糸器械が揃い、
豪華な大浴場や立派な寮と米の飯、年一回あった東京への
社員旅行なんて夢のような待遇の工場もあったの。
そして村でも言われていたあの話をこちらのお国風に直してウチでも流したわ、
『貧乏な小作の娘でも上質の糸を沢山繰れる一等女工になったら
工場も賃金を弾むから男よりも稼げるぞ、
そうしたら親に畑を買って家を建て直してその立派な玄関から
綺麗な花嫁衣裳を着て馬車に乗ってのお嫁入りだ、
その馬車の後ろには嫁入り道具の数々を乗せ
タンスにはドレスをたんと詰めてお嫁に行くだけの貯金が出来る』とね。
実際に昔の村でも実家を建て直して親に牛を買って自分の嫁入り道具を支度して
持参金を持って嫁いだ娘さんもいたんだと糸繰りのやり方を女工として働きに来た
女達に話して聞かせたら、幼い私に糸繰りを習う理由が異世界と呼ぶ
日本の記憶があるからだと既に知っていたらしいファングルの皆が
ワッと歓声を上げて勇んで働いてくれた。
アラクネ糸と布の需要は高い、だから働けば働いただけ豊かになると
皆が真面目に頑張っただけで方法を見つけはしたが私は何にもしていない。
そう王妃様に申し上げたけれどもファングル領の発展という実績が大きく
在野に私を置いたままには出来ぬと仰られ、
女だから叙勲は出来ないので箔付けに王族の伴侶とし、新たな家は実質私への物で
自然な形で身分を上げてやろうとの配慮だったんですって。
だからベオヘルグ王子の臣籍降下かと今更ながら納得したわ、
だけど王籍剥奪となった王子はどうなるの?
婚約がオジャンになってハイお終いとはならないのでしょうねぇ。
「あの子はそれでも一応民からの税でその身を養われた者、平民になったからと
放り出す訳にもゆかぬ故、国に尽くす義務から軍へと入れ兵として働く事になる」
「はぁ」
取り敢えず働き口があるのなら何とでもなると安心する。
「それとダフラシアの娘、あれは逃げたらしい」