情と呼ぶには遠く
平民の一兵士が公爵令嬢に対し名を呼び捨てにし足を止めさせた挙句、
抜剣とあっては処罰の対象となるだろうし護衛兵や騎士に
その場で切り捨てられても仕方無い所業である事を咎められ叱責された後、
ファングル領公爵邸の兵詰所側にある移動の多い若い兵士達の為の
簡素な寮の一室に放り込まれたベオヘルグ。
ベッドと物書き用の机と椅子と作り付けの小さな棚しか無いその部屋の薄いドアを
コツとノックの音が。説教が終えた時には既に空が赤く
陽が山の向こうへと沈み始めていた時刻だったから夕食を届けに来たのかと
ベオヘルグはノックの主に入室を許可した。
「失礼致します」
場違いな若い娘の声にベオヘルグは軽い驚きを覚えながら扉を開けばそこには
引っ詰め髪を一つに纏め裾が靴の上辺りまでのグレーのワンピースにエプロンの
お仕着せ姿のメイドが立っていた。
「私、ファングル公爵令嬢グラーシア様付きのマリアと申します」
グラーシアからの遣いかとベオヘルグは人前では今更何の用だと言わんばかりに
自分を突き放した女が人を介して接触してきた事に、
やはり婚約破棄を詰る位には後悔しているのだろうと甚だ都合のいい解釈をし
マリアを部屋へと招き入れる。その戸口に監視とマリアの身の安全確保の為に
今回のグラーシア帰国護衛の責任者のセドリックが
立っている事に気付かないまま。
「それでグラーシアは何だと言っているんだ?」
マリアに椅子を勧め自身はベッドに腰を下ろすとベオヘルグは
グラーシアが自分への未練から恨み言の一つも
マリアに託したのだろうと見当違いの質問を投げかけた。
多分昼間のつれない態度とメイドに託した愚痴を寛大にも許してやり
恋愛小説のセリフみたいな甘い言葉をかけてやれば復縁を迫られるだろう、
そうすれば竜退治の英雄の娘を娶って再び王族に返り咲く事が叶う、
逃げたエミリアに義理立てする理由も無いしそれが穏便な落とし所だろうと
勝手な想像でマリアに対して上からの立場の言葉をもって。
「お黙りなさい、誰に対してそのような不遜な物言いをされるのかしら」
勧められはしたが男の部屋という事もあるが、馴れ合う気は更々無いと
椅子に掛ける事もせずにマリアはまだ王族の一員のつもりのベオヘルグに問う。
マリア自身もアルミリア子爵の三女でファングル公爵家に行儀見習いに上がって
グラーシアに仕えている貴族階級の人間である。
現時点で一平民のベオヘルグが軽々しく話しかけて良い相手では無いのだ。
「お嬢様は貴方が断種の処置をされずに王宮から放逐された事から
いずれ、身分も立場を回復なされるとお考えのようでございました」
思惑とは違ったマリアの返答に怒鳴りつけるところだったベオヘルグだったが
王族に返り咲けるというセリフに怒気を納めた。
マリアの言う通り…グラーシアの考える通り王の血は重い、
我が身に流れる尊貴の血を誰だって認めているのだとベオヘルグの自尊心が擽られ
自分を無視したグラーシアの先程の無礼も許してやる気になってくる。
「だからこそお嬢様は縁の切れた貴方とは距離を置きたい、
いえ、関わりになりたく無いとお考えにございます」
マリアの告げた拒絶に何故だとベオヘルグは眉を吊り上げた。
「既にお嬢様は王太子殿下とのご婚約が決まりまして
将来の国母となられるお方にございます、そのような大事な御身に
殿下の弟君だったとはいえ既に縁の切れた殿方と親しくなされているとの
誤解を招く愚かな行為は厳に慎まねばなりませんのは常識でしょう、
更に言えば原因が貴方にあるとは言えお嬢様との婚約破棄が理由で
第三王子ともあろうお方が平民に落とされたと貴方だけでなく
貴方のお母様の王妃様がお嬢様に対してお思いになられる事もあり得ると
必要以上に関わりを持たずに距離を置こうと
お考えになってもおかしく無いとは思われませんの?」
縋るどころか厄介者扱いかとベオヘルグは先日まで自分のものであった
丈なす艶やかな黒髪のグラーシアの態度に腹立たしさを覚えた。
その面白くないとの感情が顔に出ていたのだろうかマリアは
その身勝手な男の一方的な独占欲を鼻で嗤う。
「婚約が成ったといっても白い花すら贈らなかった非常識な方が
他の女に入れ揚げてお嬢様を蔑ろにしておいた挙句に破棄しておいて
今更花の一輪すら贈らなかったお嬢様の婚約者顔をなさるおつもりかしら?」
普通なら婚約が決まった男は女性の家族にフィアンセだと挨拶に行き、
結婚当日まで顔を見せない事もあった時代からの習慣で男は妻となる女性へと
婚約期間中ずっと花を贈るのだ。その花は白い花から始まって
結婚式前日には紫の花と決まりがありそれがフィアンセの甲斐性なのだが
ベオヘルグはその習慣を忘れていたのか煩わしかったのか
グラーシアに花を贈る事は破棄まで一度も無く
グラーシアの母 グロリアーナを怒らせていたのを知らなかった。
「そんな非常識なお方に寄りつくような女性でしたからねぇ、
あのダフラシアの娘ですけれど俳優崩れの男を養う為に
口にするのも憚られるような生業に身を落とされたとか伺いましてよ」
マリアはグラーシアの耳には決して届ける事の無いそれをサラリと口にした。
それは第三王子の身を持ち崩させた魔性の娘と密かに王家の諜報部の者と
軍の諜報機関の工作員が付けられていたエミリアのその後である。
キリアラナでは女性の貞節と処女性が尊ばれており未婚女性が不倫や愛人などと
姦淫を為したりすれば良縁どころか結婚も望めなく人交わりも憚られるし
その相手の男性側も人格や常識を疑われ眉を顰められる事となる為、
王族や貴族は愛人を持つ場合は誰かの妻となった者をといった具合である。
そんな価値観のキリアラナで未婚でありながら婚約者がいる王族を
誘惑した淫乱な娘、魔性の女と見做されたエミリアは
貴族社会では死んだも同然の取り返しのつかない立場にあった。
それでもまだ愚かな事を仕出かしてしまったがまだ王子とは
肉体関係は無かったのだと修道院に入りますと行動すれば
醜聞に塗れてはいるが家だけはなんとか保てたであろう。
エミリア当人が修道院で身を慎みダフラシア男爵家は
ひたすら嵐の過ぎ去るのを待ち続ければ十年後には再び社交界に戻れただろうが
彼女は何を思ったのか家を飛び出し身を眩ませてしまう。
諜報の為に張り付きはすれども高々男爵家の娘に国と軍が何かをする義理も無い。
偶然にも優しい食堂の女将に拾われたエミリアだが、
その幸運に気づかず段々と不満を口にし何時までも昔の栄華を追い
現実と向き合おうとしない愚かな言動を改めようとはしない馬鹿娘を
店には置けないと女将は追い出してしまおうとするが
仲裁に入る振りで近づいて来た人買いが王都の劇団に紹介してやるからと
言葉巧みにエミリアを連れ出したのだ。そうして彼女は俳優だと言う男に絆され
骨抜きにされ春をひさいで貢いでいるというのを漸く知らされた父親が
無理矢理男から娘を引き剥がすように連れ戻したのだと、
エミリアの現在をマリアは主人のグラーシアを捨て
彼女を選んだベオヘルグの耳に入れた。




