人は幸せなだけでは生きていけない
狐のような形をした人の頭ほどの大きさの石と、手向けられた菊の花。
画像が添付されているだけで、メッセージのないメールが室野さんから届いていた。
一時間おきくらいの間隔で繰り返している確認作業を終えてメール画面を閉じる。
「まだ消されてないんだね」
「何が?」
キッチンに立って、愛里は動くたびに額を抑えるようにしては二人分の紅茶を煎れていた。
メールに添付されていた画像は、室野さんと奥さんが息子さんのためにつくったお墓代わりのもの。
この画像が届いたということは、二人はもう、愛里に記憶を消してもらったのだろう。
「今日のお昼前くらいかな。室野さんから、息子さんのためにつくったお墓の画像が届いたんだ」
ティーポットの注ぎ口がカップに擦れて、甲高い音を立てた。
「わたしが二人の記憶を消したって、知っていたのね」
「うん、まあ」
「怒らないの?」
「室野さん自身が望んでたんだから、しょうがないじゃん」
甘いシナモンの香りが鼻をかすめる。
「二人に、ありがとうって言われたの。あの二人にも、あなたにも、本当は怒ってほしかったのよ」
愛里はティーカップ二つをテーブルに乗せて、床に膝をついた。
俯いた顔の下で、拳が強く握られていた。
「……これって何味?」
顔を上げた愛里は、表情を崩してティーカップを取る。
「何味って、お菓子みたいな言い方しないでくれるかしら」
ようやく愛里が床に腰を下ろしたのを確認してから、ティーカップを持ち上げ、手の中で一周させる。
愛里が手にしているものと同じデザインだが、色が異なっていた。
愛里は淡いピンク、わたしが持っているものは薄い青。
どう考えても、瑞人さんが使っていたものだった。
ティーカップに留まらず、初めて訪れた愛里の部屋は、二つで一セットの物で溢れていた。
ソファに無造作に置かれているクッションもそうだし、今履いているスリッパだってそうだ。
大切な人の物が消えずに残されているのは、ずるいと思ったけれど、羨ましいとは感じなかった。
瑞人さんの部屋であったと同時に愛里の部屋でもあったから手が加えられなかったのだろうけれど、こんなに相手を思い出す物ばかりあっても余計に辛くなるだけだ。
「どうして急に呼び出したの?」
「あなたの家に向かった仲間と、あなたが鉢合わせないようにしたの。前もって教えると記憶を操作される可能性があったから」
愛里は何でもないことのように言ってのけたから、事の重大さに気づくのに遅れた。
「それって!」
「上から、あなたの記憶を消せっていう命令が下されたの」
顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
「なんでそんなに驚くのよ。もうタイムリミットが近づいてるって知ってるでしょう?」
「タイムリミット?」
「……そうだわ、知らないのね」
ひんやりとした愛里の手が、額に当てられた。
とたんに視界が揺らいで、目の前にあるものとは違う、いくつかの映像が脳内を駆けめぐる。
冷たく笑う知らない男が過ぎった途端に、背筋に冷たいものが駆け抜けた。
「だから、室野さんの家にいたんだ」
愛里の仲間であるハクヤとの接触は、記憶から完全に消されていた。
忘れるとは、こういうことなのだ。
「あのとき、ハクヤはあなたの記憶をすべて消してしまうつもりだったのよ。だからわたしがじゃまして、前後の記憶が曖昧になるだけに留めた。そのあと仲間同士で揉めてることが上にばれて大騒ぎになって、その隙にあなたを室野さんの家に逃がしたの」
「そう」
「そのあと謹慎処分になって、しばらく連絡が取れなかったの。ごめんなさい」
愛里と会うのは約一週間ぶりだった。
室野さんの家に預けられた時点で薄々何かあったのではないかと感じてはいたけれど、謹慎処分とは思いも寄らなかった。
愛里は腑に落ちないと言いたげな顔をしていた。
「あなたには関係のない話だけれど、おかしいのよね。裏切った上にこんなことをしでかしておいて、謹慎で済むはずなんてない。何か裏があるわ」
だから、と続けた。
「何かが起きる前に、決着をつけたいの」
その声には、決意に比例しただけの力が込められていた。
きっと、愛里の考えていた計画を実行するときを迎えたのだ。
「消された人たちに何かできるとしたら、わたしたちのトップに立つ人しかいない。けど、その人には滅多なことじゃ会うことはできない」
「その人に会うことが、愛里の計画なんだね」
「ええ。計画というか、それしかもう、方法はないの」
「わたしは何をすればいい?」
愛里はティーカップの取っ手を掴んで、中を睨んでいた。
「……死んでほしいの」
何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
「前に言ったわよね、監視がある以上、死ぬ予定ではない人は死ねないって。でも、この地区を担当している仲間たちは今、あなたの家に向かっている。意味、わかるわよね?」
今死ねば、愛里が止めない限りは、確実に死ねる。
「成功すれば大混乱になるわ。その隙に、わたしはこの件に介入してくるはずの、こちらのトップと接触を試みる」
「……生き返れるの?」
愛里は首を振った。
「死んだ人を生き返らせることはできないの。成功しても、一目会うだけで終わるかもしれない。消された人が元に戻っても、あなたは死んでいるから会えないかもしれない。それでも相手を助けたいと思う覚悟があるなら、協力してちょうだい」
これしかもう方法がないの、と呟いた愛里の声は震えていた。
愛里がもっと、嫌な奴ならよかったのに。
この言葉をわたしに伝えるために、愛里がどれほどの覚悟をしたのだろうかと考えたら、怒ることはできなかった。
きっと、室野さんたちも同じ気持ちだったのだ。
両手でティーカップを包んで、冷めた中身を一気に飲み干す。
「ずっと後悔してるんだ。准とはあのままの関係でも十分幸せだったのに、なんで満足できなかったんだろうって」
愛里はシュガーポットの蓋を開けて、掬い上げたスプーンをティーカップへと何度も行き来させていた。
「友達は男女の間に友情は成立しないって言うけどさ。未だに、准に対しての感情が恋だったのか友情だったのか、よくわかんないの。ずっと、このまま付き合っていていいのかなって考えてた」
回されるスプーンは幾重にも円を描いて、溶けきれない角砂糖が底を転がる音を立てる。
「でも、こんなことになって初めて気づいたの。准と一緒にいられれば、ただそれだけで本当はよかったんだって」
愛里は手を止めて、スプーンをソーサーに置いた。
「……そうね」
やっと耳に届くような大きさの声で、わたしもだと愛里は呟いた。
「だからやるよ。どんなかたちでも、もう一度、准に会える可能性があるなら」
「ありがとう」
愛里は震える手でティーカップを掴み、すっかり冷めた中身を口に含んだ。
「何これ、甘っ」
自分で砂糖を大量に入れたはずなのに、愛里は顔をしかめた。
「自分であれだけ入れたくせに」
「無意識だったのよ」
口角が自然と持ち上がるのが、自分でもわかった。
この状況下でも笑うことのできる自分に安堵する。
まだ、死への恐怖に負けていない。
負けたくない、今度こそ、准への想いを証明したい。
「ごめんなさい」
愛里は涙の滲む瞳を見せまいとするように、強く、わたしを抱きしめた。
「やっぱり、やめましょう。あなただけを犠牲にすることなんてできない」
「愛里、だめだよ」
背中に回されていた腕をほどいて、愛里の手をそっと握る。
「もう一度、会いたいでしょう?」
愛里に言い聞かせるように、自分に向かってささやく。
口をつぐんだ愛里の手を離して、辺りで凶器になりそうなものを探す。
決心が鈍る前に、早く、行動に移さないと負けてしまいそうだった。
「待って!」
人の女性にはない力で、腕を掴まれた瞬間だった。
「そこまで」
凛とした声が届いて、愛里が力なく崩れ落ちる。
「カイリさま!」
突然音もなく現れた男は、長身をかがめて愛里に目線を合わせる。
「わたしに会いたかったんだろう?」
「いつから……いつから知っていらっしゃったんですか」
「ずっと、だよ。君たちが出会ってからずっと、動きを観察していた。だから君の行動の数々を見逃してあげたし、裏から手を回したりもした」
「なんでそんなことを!」
カイリと呼ばれた男の瞳が揺らいだ。
「……わたしも君たちと同じだったからだよ」
以前会った、愛里の仲間のような冷酷さはそこになかった。
表情は柔らかく、どちらかと言えば愛里に近い存在のような雰囲気がする。
「今回の修正の原因になったのは、わたしなんだ」
男はわたしたちから目をそらしたまま、ゆっくりと語り出した。
一人の少女が事故による植物状態に陥ったことから、すべては始まった。
少女が生まれ育った環境は複雑だった。
家族からは疎まれ、友人もいなかった。
彼女が愛するのも、彼女を愛するのも、心優しい恋人、ただ一人だけ。
「わたしに初めて与えられた任務は、その恋人を消すことだった」
男は悔やむように、一度唇を噛み締めた。
「わたしは能力に長けていたけれど、生まれつき、人に近い感情を持ち合わせてしまっていた。だから自分の行動がどんな結果を生むかなんて深く考えずに、二人にせめて別れの言葉だけでも交わさせてあげたいと願ってしまったんだ」
少女が意識を取り戻すまでに消さなければならなかった恋人を、少しだけ長く生かした。
結果、少女にとっても、その恋人にとっても、別れは最悪のものとなった。
意識を取り戻した少女に、恋人は、このまま死ねばよかったのにと言い放った。
最愛の彼女を失ったと思っていた恋人は、ある犯罪にすでに手を染めており、今さら引き返すことはできなかった。
少女の恋人が消される対象になったのも、その犯罪が原因だった。
ほどなくして少女は、自殺を図る。
自殺を図った少女を男は止めることができず、事態は現在に至るまで世界を揺るがす、大騒動に発展した。
「わたしは消えてなくなってしまいたかったが、当時の上層部はわたしの力を惜しんで何も処罰しなかった。それからずっと、わたしは自分の行いを償うために、この世界を守るために、世界の修正を続けている。もっと早くに、君たちの望みを絶ってあげればよかったんだろうね。でも、どうしても自分とかぶって、止められなかったんだ」
代わる代わる男は、わたしと愛里に射貫くような視線を向ける。
「もう、消された人間に会いたいなんて言わないでくれよ。一部の者たちの自分よがりな願いが、今度はどんな不幸を招くと思う?」
「……その女の子は、恋人の記憶を消されて孤独に生きたとして、幸せだったと思いますか。もしかしたら、幸せを知ることなく女の子は生涯を終えたかもしれません。たとえ不幸な最後だったとしても、恋人との幸せな記憶を持ったまま死ぬことができた方が、女の子にとっては幸せだったとは思いませんか。あくまで、可能性の話ですけど」
「何が言いたい?」
「人は幸せなだけでは生きていけないと、ある人に言われました」
室野さんの言葉を思い返す。
「つらい、苦しい思いをするからこそ、感じる幸せもあります。あなたたちはわたしたちの世界から不幸を取り除いているつもりかもしれませんが、幸せも一緒に消しているんです。ただ生かされる世界に、何の意味がありますか。修正されないことでいつか世界が消えるとしたら、それは仕方のないことだと、わたしは思います」
男は何も言わないまま、わたしの頭に手を置いた。
「カイリ様!?」
愛里が制止しようとして押さえられたのを最後に、目の前の映像が切り替わる。
懐かしい、准の部屋だった。
自分が消されることを話す准と、最初こそ笑い飛ばしていたものの、嘘ではないことを知って涙が止まらなくなったわたし。
ほどなくして、愛里が現れる。
准は消され、わたしの記憶も愛里によって書き換えられた。
映像が途切れて我に返ると同時に、バックの中を漁る。
内ポケットの中を探って、目的のそれをようやく取り出した。
「きみの話を聞いて、僕も救われた気がした。記憶を見せてあげるだけで精一杯だけど、わずかばかりのお礼だよ」
何も書かれていない、准のいたずらだと思っていたメモ用紙。
なんとなく捨てられずにとっておいたそれには、准からの最後の言葉が残されていた。
「愛里が消さないでいてくれたんだね」
「でも、内容は残してあげられなかったわ」
「いいの。覚えてるから」
そこに書かれていたのは、准らしい、単純な言葉だった。
ありがとう。
准なりの、精一杯の愛情表現だった。
「きみの意見は正しいのかもしれないが、過去の経験もあるし、今すぐにどうこうすることはできない。今はきみの記憶は消させてもらう。ただ、いつか、誰かの大切な人を消さなくて済むように、これからのことをじっくりと考えていくことにするよ」
メモ用紙に残された涙の跡を、ゆっくりと撫で上げる。
「愛里、よろしくね」
愛里の手のひらにメモ用紙を乗せる。
本当は、世界なんてどうでもよかった。
もう一度、会いたかったのに。
「准……」