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想い涙  作者: 水瀬 一希
7/9

別れ

ずっと、愛里は柚穂の寝顔を見つめていた。

その背を眺めていた時間はとても長く感じたが、実際には五分と経っていなかったらしい。

携帯の画面を確認して、愛里に声をかけようとした瞬間だった。

「見つけた」

「え?」

愛里はわたしの腕を掴み、驚く柚穂の母親をよそに、家を飛び出した。

「ちょっと、どうしたの!?」

柚穂の家は近所ではあったけれど、駅からだいぶ離れた住宅地にあった。

大学までは電車で通学しているし、この近辺は活動圏内から外れているから、見知らぬ街に来たようなものだった。

対して愛里は瑞人さんが言っていた通りこの近くに住んでいるようで、慣れたように通りを外れて小道に入って行く。

周りは家ばかりで、点在する小さな洋菓子店や隠れ家的な飲食店を除けば、ずっと同じような風景が続く。

走ること十分ほど経っただろうか。

いつもとは全く違う道のりで、見慣れた公園にたどり着いたようだった。

普段使使用している入口とは別の入口で、公園の名前が彫られた木の看板がなければ、気づくことができなかったかもしれない。

走る速度を緩めたと思えば、愛里はその場に立ち止まり、膝に手をつく。

柚穂の家からそれなりの距離を走って来たが、愛里の疲労は異常だった。

血の気の引いた、白い顔で荒い呼吸を繰り返す。

「大丈夫なの?」

「……だいぶ、力を使ったから」

「柚穂、に?」

「あれぐらいは平気よ、いつもやっていることだもの。別のことよ」

何に力を使ったのかと考えたら、その対象はわたししか考えられない。

掴まれたままだった手を急いで引き剥がす。

開放された手首は、赤く指の跡を残していた。

「あなたじゃない」

「じゃあ何に使ったの!」

愛里は大きく息を吸って、自分の手を強く握りしめた。

「捜していたのよ」

再び手首を掴まれて、振り払うこともできずに走り出す。

舗装された道を逸れて、愛里は木立の中に入っていく。

夕暮れ時の公園は子供たちや犬の散歩中の人たちで賑わっているのに、まるでそこだけを避けているかのような、静けさが漂っていた。

木立の中に入ってから、生ぬるい空気が全身にまとわりついて、奥に進むにつれて、動悸が速まっていく。

公園なのだから、陽差しを遮るほど木が茂っているわけでもないのに、まだ沈みきっていない夕陽が差しもせず、薄暗かった。

周囲の様子に気を取られて愛里が止まったことに気づくのが遅れ、背中に思い切り顔をぶつける。

「ごめん」

背後から前を覗けば、背の高い男が一人、離れた場所に立っていた。

離れた場所からもわかるほど目鼻立ちの整った男を、愛里は見たこともないほどに鋭い目つきで睨んでいる。

「ハクヤはおかしいって思わないの!」

ハクヤと呼ばれた男は、一歩ずつ、こちらに歩み寄る。

男は愛里の仲間のようだった。

「もちろん思うよ」

「だったらなんで、まだこんなことを続けていられるのよ!」

男はこちらへの歩みを止めず、ただそれだけなのに、得体の知れない恐怖を感じた。

愛里の態度も横柄だと思ってはいたけれど、この男は、根本的に何かが違う。

「勘違いしないでくれるかな。君がだよ」

頬を上気させた愛里を見て、男は口元を抑えて笑い出した。

「君はおかしいんだよ。たかが人間なんかに入れ込むなんて」

恐怖の理由がわかった気がした。

愛里の態度は、人をばかにするものだったけれど、この男の態度は、人の存在自体を否定している。

わたしは、男の視界の中では、地面に生える草のように気にも留められない存在なのだ。

「人は生きているのよ?」

「それが?」

「わたしたちがしていることは、人殺しと一緒よ!」

いっそう激しく笑い出して、男は腹を押さえた。

「正気か!君の言う通りこれを人殺しと言うなら、僕らは将来に多数の犠牲を出さないために、今少数を殺しているだけ。何がおかしい?僕らはお前が肩入れする人間のために人殺しをしているんだよ?」

男はふいに笑いを止めた。

「よかったよ。これ以上君がおかしくなる前に、あいつを消してもらって」

「あなたが瑞人を消したのね!」

食ってかかろうとする愛里を抑える。

「待って!」

この男が本来なら消えるはずではなかった瑞人さんを消した本人なら、愛里がどんな行動に走るかは目に見えている。

未だに内容はわからないが、冷静さを失っている今が、愛里の言う計画を決行するときだとはとても思えなかった。

どんなにこの男に屈辱的なことを言われても、准が戻る可能性を潰すわけにはいかない。

「そんなに、人が嫌いなの?」

急に口を挟んだわたしを一瞥して、男はわたしが愛里に回していた腕を引き剥がす。

「好き嫌いなんて人の感情だろう。どうとも思わない」

殴りかかろうとした愛里の腕を簡単に受け止めて、男は愛里の耳元へ口を寄せた。

「君が一切あいつとの関係を断つというのなら、上に掛け合ってあげてもいい。僕らは下等なあいつらとは……そこの女とも、違う。感情なんて愚かなものに振り回される必要はないんだ」

優しく諭すような甘い囁きは、ただの脅しでしかなかった。

愛里は元から自分を犠牲にして瑞人さんを助けるつもりだった。

そんなことを言われて、愛里が拒否できるはずがない。

「本当、に?」

「ああ」

感情をそぎ落とされたようにより蒼白になった愛里は、男に差し出されるまま、その手を取った。

「待ってよ愛里!わたしたちは、どうなるの!?」

愛里は押し黙ったまま、何も答えようとしない。

終わってしまう。

このままでは准と、もう二度と。

「愛里ちゃん」

ハクヤとは違う、優しく、心地よい男の声だった。

わたしが振り返るより早く、愛里はハクヤを押し退けて走り出していた。

「瑞人!」

抱きつこうと伸ばした腕は瑞人さんの体をすり抜け、勢い余って愛里は地面に倒れ込んだ。

「存在しないんだ、触れられるわけがないじゃないか。今さらそんなことから説明が必要なのか?」

ハクヤは冷たく吐き捨てた。

倒れた愛里に瑞人さんは手を差し出したけれど、触れることができないことを思い出して、すぐに引っ込めようとした。

愛里はそれを止めて、触れるふりをして体を起こす。

「今、助けるから!」

瑞人さんは首を振った。

「僕は戻れない。最後に愛里ちゃんの姿を見れてよかった」

「戻れないことなんてないわ!わたしが助けるから、絶対!」

愛里がしたように、瑞人さんは手を伸ばして、愛里の瞳から零れだした涙を拭うふりをした。

「愛里ちゃんの目は、愛里ちゃんの心と同じなんだね。とっても、澄んでる」

最後にこんなきれいなものを見ることができてよかったと、瑞人さんはほほえんだ。

「……そんなこと、言わないで」

愛里の声は震えていた。

「ごめん。クサかったね」

「最後じゃ、ない」

拭えなかった涙が、地面を濡らす。

「愛里、最後だよ」

ハクヤは瑞人さんに向かって指を向けた。

二人のじゃまをしなかったのは、きっと、最初から瑞人さんを助けるつもりなんてなかったからだろう。

止めるにも、為す術なんてなかった。

「ばいばい」

次の瞬間、瑞人さんの姿は消えていた。

「最初から、こうするつもりだったのね」

やっとのことで絞り出された声だった。

「僕に上と掛け合えるような権力があるとでも?あいつをここまで連れてきてあげただけでもありがたく思ってもらいたいな。最後のお別れぐらいはできただろう?」

「……許さない!」

「あいつはこの話を持ちかけたとき、喜んでいたよ。どうせ消されるのなら、最後に君の姿を見ることができて幸せだって」

「それはどちらにしたって消されるからでしょう!わたしは……わたしは!」

瑞人を助けたかった。

小さく掠れた呟きを聞いて、ハクヤは再び腹を抱えて笑い出した。

「本当に救いようのない。同期として今まで君のことを庇っていてあげたけれど、もうむりだ」

ハクヤは一切の感情をそぎ落としたような表情に戻った。

「上に報告させてもらうよ」

拳を握りしめて、愛里に近寄るハクヤの前に立ちはだかる。

「わたしたちは、あなたたちのおもちゃじゃない!」

「うまいことを言うな。確かにお前たちは創造主様を楽しませるためのおもちゃだ」

冷たく、低くなった声音に思わず後退りそうになる足を、その場に踏み留める。

「あなたたちに操られることでしか生きていられないのなら、死んだ方がいい!こんな世界、なくなればいい!」

叫んだ瞬間、ぐらりと体が傾くのが感じた。

愛里がわたしの名前を必死に呼ぶ声が聞こえたのを最後に、意識は薄れていった。




とにかく気持ち悪いという思いが頭を占めていた。

体を起こして口を押さえると、少々手荒に背中をさすってくれる手があった。

「吐きそう?」

その手の主を見上げる。

小動物のようなぱっちりとした目をした女性は、首を傾げてこちらを覗き込んでいた。

小柄な、少女のような女性。

「誰……?」

「意識ははっきりしてるみたいね」

「え、あの」

ぱたぱたとスリッパを鳴らして小走りして、女はドアを少しだけ開いた。

ベッドから出ようと横に寝返りを打とうとするも、犬型の抱き枕に妨害される。

女は隙間に顔を入れるようにして、あなた、と外で待機しているらしい夫を呼んだ。

「未花ちゃん」

移動させようと持ち上げた抱き枕が床に転がり落ちた。

中に入ってきたのは、先日、部屋まで柚穂を運んでくれた男だった。

「室野さん。あなたの家だったんですか」

室野さんはベッドまで椅子を引きずって、向かい合って座った。

「気分はどう?」

「少し気持ち悪いですけど、それ以外は何ともないです」

「ならよかった」

背後に立つ奥さんに、室野さんは水と消化に良い食べ物を持ってくるように頼む。

「いいです、悪いですし」

「気にしなくて良いの。うち男ばっかりだから、久しぶりに女の子と話せて嬉しいし」

奥さんは室野さんの頭を軽く叩く。

「それに、愛里さんに未花ちゃんのことを頼まれてるんだ」

「愛里に?どうして?」

「どうしてって、未花ちゃんがわからないことは俺にもわからないよ」

そもそも、なぜ室野の部屋にいるのか、そこから事情がわからなかった。

「なんでわたし……」

ここにいるんですか、と言い切る前に、奥さんに遮られた。

「もうこんな時間?バスが来ちゃう」

つられて壁に掛けられた時計を見やる。

柚穂の母親から電話を受けて家に行ってからそうは時間が経っていないようだったけれど、違和感があった。

今まで眠っていたのにまだ夕方に差し掛かるくらいの時間というのは、信じがたい。

奥さんは再びスリッパを鳴らしながら部屋を出て行った。

「バス?」

「幼稚園の送迎バス……息子を迎えに行ったんだ」

「他にもお子さんがいるんですね」

「違う!」

叫んで、室野さんはばつが悪そうに息を吐いた。

「精神的にまいってるんだ」

「そう、なんですか」

我が子が突然いなくなってしまったのだから、現実を受け止めきれなくなってもむりはない。

サイドテーブルに置かれた、空の写真立てを手に取る。

天使たちがデザインされたアンティーク調の写真立ては、写真を入れなくても十分インテリアとして成立していたけれど、どこか違和感があった。

「気づいたらなくなってたんだ」

納得した。

陶製のフレームはよく見ればところどころ塗装が禿げていて、写真を入れるガラス部分には細かな傷がいくつか付いているにも関わらず、埃は全くかぶっていなかった。

長い間、大切にされてきた形跡はあるのに、中身の写真がないことが頭に引っかかったのだろう。

「裕樹が、息子がいなくなったってことは理解できているんだ。でも信じたくないから、毎日ああやって迎えに行ってずっと玄関に座っているんだ」

「連れ戻しに行かなくて良いんですか?」

「心配してくれてありがとう。暗くなる頃には諦めて戻ってくるから、いいんだ」

あの小さな背中がぽつりと玄関に佇んでいる様を想像して、胸が痛んだ。

柚穂だけじゃない。

もうみんな、限界だった。

「愛里に頼めば、記憶を操作してくれますよ」

「やっぱり、怖じ気づいた?」

「いえ。でも」

その先を続けることはできなかった。

死にたかったのに。

柚穂の言葉が耳から離れない。

わたしはまだ、たぶん、がんばれる。

自分に言い聞かせるけれど、ああならないという保障はどこにもなかった。

「どうして、わたしがここに?」

話を変えても、室野さんは追求しようとはしなかった。

毎日こんな奥さんの姿を目にしているのに、絶対に息子のことを忘れたくないとはもう言い切れないのだろう。

「昨日の夜遅く、愛里さんがここへ運んできたんだ。事情を説明している暇はないけど、寝ているだけだから落ち着くまで置いてやってほしいって」

「昨日?」

違和感の正体は、それだった。

この夕方は、柚穂の家を訪れた数時間後の夕方ではなく、翌日の夕方だった。

思い出したように一日近く寝ていたツケが回って来たのか、頭痛がした。

「昨日、何があったの?」

「昨日ですか?」

説明しようとしても、霞がかかったように記憶はぼんやりとしていた。

柚穂の家を後にして、愛里に手を引かれるままに走ったところまでは鮮明に記憶に残っているのに、そこから先のことがどうやっても思い出せなかった。

記憶を、操作されたのかもしれない。

掻きむしるように腕を掻くと、室野さんに慌てて腕をほどかれた。

「何をしてるんだ!」

「だって」

自分が、自分でなくなる。

ふいに、柚穂に自殺を図らせたのは、大切な人を失った悲しみだけではなかったのだと気づいた。

「わたしたちが生きる意味って、何」

生かされるだけの人生。

わたしたちはただのおもちゃ。

「准と一緒に消えたかった!」

そしてもう二度と、こんな世界に生まれつかなければよかった。

「俺もいろいろ考えたよ。たとえば息子が死んだとして、どっちの方がましだったろうって」

言われてみて、准がもし消えたのではなく死んだとしたら、と考えてみる。

わたしはずっと悲しみを抱えて生きていくのだろうと、ぼんやりと想像した。

「子供の頃、実家で飼ってた犬が死んだんだ。俺が生まれるよりも前に家に居着いてたからって、いつもばかにされて追っかけ回されてた。だから、正直言って、あまり好きじゃなかった。でも死んでから毎日、夜中に突然目が覚めるようになって、母さんに相談したんだ。そうしたら、太郎……犬の名前なんだけど、太郎がいなくなったからだろうって。そんなに好きじゃなかったのに、おかしいだろう?」

「でも一緒に暮らしてたわけだったし、寂しくないわけはないんじゃ」

「そんなんじゃないんだ。太郎はずっと、俺と一緒に寝てくれてたんだよ。俺が寝たのを見計らって俺のところに来て、隣で一緒に寝て。朝になると俺が起きる前に部屋から出て行くっていうのを、俺が生まれてから毎日、繰り返してたんだってさ。あいつなりに俺のことを守らないとって思ってたんだろうな」

「いい話ですね」

「いい話、かあ。俺にとっては思い出したくない話ナンバーワンなんだけどな」

「何でですか」

「悔しかったから。あいつは俺のこと大事に思ってくれてたのに、何にも返してやれなかったなって」

犬にとっては室野さんのことが好きだったのに、室野さんは嫌っていた。

事実を知っていれば優しくなれていたかもしれないと思うのは、当然のことだ。

「この話したのって、未花ちゃんで二人目なんだ。一人目は奥さん。あいつとは大学で知り合ったんだけど、しばらく見かけない時期があったんだ。一月後くらいに会ったときに理由を聞いてみたら、なんて言ったと思う?」

「体調を崩したとか?」

「全然違う。生まれた頃から飼ってた犬が死んで、悲しくて学校来れなかったんだってさ」

犬は家族同然だという人もいるし、奥さんの性格も考えればなおさら、理解できなくもなかった。

「そのときに、慰めるためにさっきの話をしたんだよ。俺よりはましなんだからいいだろうって」

「それでどうなったんですか?」

「気づいたら、俺の方がぼろ泣きしてた」

思わず吹き出すと、室野さんはむきになって言い訳した。

「俺だって、未だに何で泣いたのかよくわからないんだ。ずいぶん昔の話だったし、今さら泣く理由もないし。そしたらあいつ、たぶん自分でも覚えてないんだろうけど、『悲しみも幸せもその人によって尺度が違うものだから、たとえば縁日で買った金魚を死なせてしまった子供の悲しみと、今の自分たちの悲しみには差なんてない』って言ったんだ」

「あの、わたしよくわからないんですけど」

「俺も正直、そのたとえはよくわかんなかったけどさ。さっきのどっちがましなんだろうって話を考えてたときに、あいつが言ってたことを思い出したんだ。結局のところ、どっちにしたって、悲しみをずっと背負っていく悲しみと、悲しむことすらできない悲しみは比べることなんてできないって思った」

「じゃあどっちだっていいってことですか?」

「……余談だけど、その話がきっかけで、俺たちつきあい始めたんだ」

「だから?」

「太郎を失った悲しみがなかったら、今の俺っていなかったんだなって思った。もし息子が消えたんじゃなくて死んだとして、悲しいけど、それを背負っていくことが俺の人生だったんだ」

まだ、何を言わんとしているのか理解できなかった。

「いつか気づくよ、創造主様っていうのも。世界が消えるなら、それもまたしかたがないことだって。俺たちは幸せなだけじゃ生きていけないんだ」

室野さんの口調は諦めにも似ていた。

「このまま受け入れるんですか?」

「そうなるな。あいつの親って、田舎で旅館やってるんだ。近くの山にでも、どうせ壊されるんだろうけど墓みたいなのをつくって、俺たちなりに息子のこと供養して……記憶は消してもらう」

「協力するって言ったじゃないですか!」

「あれだけでかい口叩いておいて情けないって、自分でもわかってる!」

気迫に押されて縮こまったわたしに、室野さんは小さく謝罪した。

「悪いけど、俺の家族は息子だけじゃないんだ。もうこれ以上、あいつが苦しんでるのに何もしてやれないのは耐えられない。でも、こんなに愛している息子のことをあいつが忘れたら、俺はあいつを許せない。だからいっそ、俺も忘れようと思う」

最低の男だと自分を罵る室野さんに、写真立てを差し出した。

「最低な人はそもそも、そんなことで悩みもしませんよ」

室野さんは写真立てを受け取り、抱き締めた。

「つくづくわたしたちって、不器用な生き物ですね」

室野さんの目が届かないようにこっそりと、枕元に置かれた焦げ茶のショルダーバックから携帯を引っ張り出す。

待ち受け画面を確かめて、そっと中に戻した。

恥ずかしいからやめろと、二人でプリクラを、写真さえ頑なに撮ろうとしなかった准。そんなわたしたちを見かねて、文化祭の最中に友達が隠し撮りしてくれたものは、二人が写る唯一の写真だった。

携帯購入時から待ち受けを占拠し続けていたその写真に代わって、木の枝に止まる小鳥が小首を傾げていた。



いつだったか、クラスでも目立たないタイプの友達が、大勢の人の中にいるとわけもなく不安に襲われるときがあると言った。

当時こそ理解できなかったけれど、今はこういうことなのだと、身に染みていた。

自分の居場所が、わからない。

夜のファミレスは、周辺に学校が集まっていることもあって、客は学生が大半を占めている。

離れた席で悪ノリしている大学生たちがいっきコールをし出して、すかさず店員に止めに入られていた。

一瞬だけ静まりかえった店内は、またすぐに喧噪を取り戻す。

幾重にも重なる話し声、笑い声、叫び声。

動悸が少しずつ速まって、喉が詰まる。

「未花ちゃん!」

体を揺すられて、ようやく我に返る。

同じサークルのメンバーたちが、心配そうにわたしを見ていた。

「何度も呼んだのに返事しないから、びっくりしたよ」

「すいません」

「調子悪いわけじゃないよね?」

「違うよ、何でもない」

やっぱり、来なければ良かった。

室野さんに目撃されたのを最後に、愛里とは連絡が取れなくなった。

家にいると寂しくなるばかりで、真面目に授業に出席しては、そのまま友達やサークルの仲間たちと夜まで過ごす日々が続いていた。

「そろそろ帰ろっか」

一人が気を利かせて伝票をテーブルに広げて、まとめて会計するためにお金を集めようとする。

「わたしだけ先に帰るから、みんなは残って」

「気にしないで。そろそろ終電も迫ってるし、どうせ解散するタイミングだよ」

「まだ終電まで余裕あるじゃん。わたしも帰るの止めるから、もうちょっと居よう」

伝票をテーブルの脇に戻して、席を立つ。

「ドリンクバー行って来るね。何か取ってくる?」

「じゃあ、わたしアイスティー飲みたい」

「わたしも」

コップを2つ受け取って、みんなに背を向ける。

みんなから離れられてほっとしたのはわたしだけではなくて、小声でわたしに何かあったのかと話す声が聞こえた。

ドリンクバーはわたしたちの席からは死角だった。

何を飲もうか悩んでいるふりをして、その前をうろつく。

すぐ近くで女子高生が何かのゲームをしていて、誰かが負けたらしく、笑い声が上がった。

目をやれば、柚穂が着ていた制服と同じだった。

ブレザーの胸ポケットに施された刺繍が特徴的で、すぐに気づいた。

まさかとは思ったけれど、四人の顔を覗く。

正面に座る二人の顔はすぐに見えたけれど、背を向けている二人の顔は、なかなか見えなかった。

「それであいつから別れようって言い出してきたの?」

「らしいよ。ありえなくない?」

「あの子もよくしょうもないのに引っかかるよねー。柚穂も気をつけなよ」

聞き間違いではない。

正面に座る少女の片方が、柚穂と確かに口にした。

「気をつけるも何も、わたしには縁がない話っていうか」

聞こえたのは、気が弱そうな、いつもの柚穂の声。

「またそんなこと言って。野球部のキャプテンと良い感じなくせに」

「かずくんは席が隣なだけだってば!」

「かずくんだって!」

こういうときは、むきになって否定されればされるほど、周りのテンションは上がるものだ。

進んでいく話についていけずに、柚穂は困ったように手を振っていた。

「あいつって見た感じぱっとしないけど、好青年っぽくてよくない?」

「わかる。キャラ的に柚穂と合うと思う」

「いいなー、わたしも彼氏ほしい!」

「ちょっと待ってよ」

ようやく止めに入った柚穂をからかって、また笑いが起きる。

怒りながら、つられて柚穂も笑い出した。

「……たのしそうじゃん」

アイスティーの入ったコップだけを持って、柚穂に声をかけることなく席に帰る。

柚穂にとって、わたしはもう赤の他人だ。

「やっと戻って来た」

「ホットコーヒー飲みたかったんだけど、機械の調子が悪くなっちゃって」

嘘をついて、アイスティーを渡す。

「えー、そんなことあるんだ」

「直してくれるのを待ってたんだけど、時間かかるから諦めちゃった」

そこから何事もなかったように、ここにいないメンバーの話だったり、恋愛の話だったり、会話は弾んだ。

心配されないようにときどき相づちを打って、居づらくなったら、ドリンクバーやトイレに向かった。

これがつい最近まで、わたしにとって当たり前の生活のはずだったのに。

「わたしもまた、笑えるようになるのかな」



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