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想い涙  作者: 水瀬 一希
6/9

愛里

嫌な夢だった。

ずっと走っているのに、迫り来るものから逃げることができなかった。

自分が何から逃げようとしているのかさえわからず、ただ息を切らして走り続けることしかできなかった。

助けてもらいたくて、誰かの名前を叫んだところまでは覚えている。

背中にまとわりつく汗を、布団代わりに掛けていたバスタオルで拭う。

もしかしたら、今までのおかしなできごとはすべて、夢だったのかもしれない。

ベッドを占領しているのは大学の友達で、柚穂はきっと、わたしが夢の中でつくり出した架空の人物。

だったら、よかったのに。

そばに落ちていた掛け布団を拾い上げて、ベッドに横たわる少女にかぶせてやる。

眠りを妨げられたのか、寝返りを打って、眉をひそめた。

他人の心配をしている場合ではないのかもしれない。

柚穂は覚醒するまでには至らなかったらしく、再び静かに寝息を立て始める。

役目を果たす必要の無くなった目覚まし時計のスイッチを切り、針の動きを追う。

起きる予定だった時刻は三時間も先だった。

窓の外には明けたばかりの空が広がっていた。

すぐに手持ちぶさたになって、ベランダに出て後ろ手に窓を閉める。

清々しい朝の空気を吸って、動き始める街を見下ろした。

ジャージ姿の男がマンションの前を走り抜けて、入れ替わるようにスーツ姿のサラリーマンが駅へと歩いていった。

かすかにインターホンの音が聞こえて、両側の隣室の様子を代わる代わる伺う。

今の時間を考えたら当然のことだけれど、隣室の住人はまだ夢の中のようで、来客に応じる気配はなかった。

「あのー、誰か来たみたいですよ」

窓が開いて、目を擦りながら柚穂が顔を出した。

「うちだったの?」

玄関へと小走りしながら、頬をよぎる風に既視感を覚えた。

汗ばむ手でドアノブを握りしめ、ゆっくりとドアを押す。

「こんな時間にごめんなさい。話したいことがあるの」

彼女の整った顔立ちを、いつか、芸人が「人間離れした美しさ」と褒めていた。

それは、あながち間違った表現ではなかったのかもしれない。

「愛里」

愛里はTシャツにジーパンというラフな出で立ちで、メイクもしていなかったが、隠しきれない独特の雰囲気がにじみ出ていた。

「入れてもらっていいかしら」

ドアから体を離すと、愛里は我が物顔で上がり込んで、ローテーブルの前に正座する。

「話したいことがあるって言ったでしょう。早く座って」

横柄さに文句を言うことすらできずに、弾かれたように愛里の前に座る。

「あ、愛里だ!」

芸能人に会えた喜びと驚きを隠せない柚穂を、愛里は一瞥した。

「あ、えっと、帰りますね」

愛里に気圧されて、柚穂はスクールバックを手にとって部屋を出て行こうとする。

引き留めようと腰を上げると、愛里に肩を押さえつけられた。

「あの子は話のじゃまになるだけだわ」

ドアの閉まる音がしたのを確認して、愛里はわたしに向き直った。

「あなたは、この件に関係しているんですか」

主語を言わずとも、愛里は頷いた。

「関係してるも何も、当事者ね」

「……被害者、ではないですよね」

「ええ、加害者よ」

愛里の抑揚のない声が、神経を逆撫でる。

「准はどこに行ったんですか!」

テーブルを力任せに叩いても、愛里の表情は少しも揺らがなかった。

「物理的には存在しないわ。この世界には」

「この世界、には?」

「あなたが夢だと思いたいなら、わたしはそれでも構わない。わたしは、人じゃないの。人に似せてつくられた、人を守るための存在」

よくもそんなつくり話を、と笑い飛ばせればよかったのに、何も口にすることはできなかった。

代わりに、唾を飲み込む。

「わたしたちの役割は、未来に大きな悪影響を与える人を選別して、影響が出る前に消すこと」

「消す……」

「最初から、そんな人物は存在しなかったことにするの」

「准は、どうなったの」

「だから、消されたの。直接的、あるいは間接的なのかはわかりかねるけど、あなたの恋人は将来重大な悪影響を与えると判断されて、消された」

愛里は初めて、わたしから視線を外した。

「違うわね、わたしが消したの」

「なんで、准を!」

「言ったでしょう。将来の危険を回避するためよ」

「准は悪いことなんてしてない!」

「今ではなく、将来の話よ。直接的に悪影響を与えなくても、例えば、彼が警察官になって、万引き犯を今回限りだと見逃したとする。そのせいで、後日、万引き犯が殺人を犯す。そんな関わり方でも、消さなければいけないときもあるの」

「そんなこと言ったら、みんなどこかしらで関わってるよ!」

愛里は顔を歪めて、重ねた両手を握りしめた。

「あなたの言うとおり、きりがないから、今までは消すのは当事者だけだった。今回はなぜか人数が桁違いに多い。おかげで処理が追いつかなくて、あなたのように、消えた人を記憶に留めている人たちが現れた」

ふいに顔を上げた愛里の視線は、試すように真っ直ぐに向けられていた。

「とにかくあなたの恋人は戻って来ない。このままじゃ、ね」

「何をすればいいんですか」

全ての真相をわたしが知る必要も、それが許される理由も、あるとは思えない。

そのリスクと引き替えにしてまで、愛里はわたしに何かを望んでいる。

「協力してほしいの」

わずかだが、愛里の声が震える。

はじめて愛里に感情らしいものを見て取った。

愛里が感情を露わにするのは、きっと、あの人のためだけだ。

「瑞人さんに何かあったんですか?」

愛里は頷いた。

「瑞人は消される予定じゃなかった。なのに、いなくなっていた」

次第に、声はか細くなっていく。

「わたしのせい、なの。わたしが、人みたいになったりしたから!」

「人、みたいに?」

「わたしたちには、あなたたちが言う感情というものはないの。不要だから。でもわたしは、瑞人と一緒にいたいと思ってしまった」

二人の仲むつまじい様子を思い出す。

「消えた人って、どうなるんですか」

「普段はすぐに生まれ変わらせているけど、今回はしないそうよ。今回は審査を設けて、通過した人だけがわたしたちと同じ存在になれる。通過できなかった人はそのまま、完全に、消える」

「逆に言えば、瑞人さんが審査を通過すれば、ずっと一緒にいられるんでしょ?」

「通過させたら消した意味がないじゃない!瑞人は審査を通らず消されるのよ!早く、止めないと!」

次の瞬間、耳に届いた乾いた音に、愛里の頬をひっぱたいた自分までもが驚いていた。

「都合が良すぎるってわかってるわ。やっていた側なのに、やられたら悲しむなんて」

愛里は頬を押さえて、自嘲気味に呟いた。

静まりかえった部屋の中に、聞き慣れた着メロが鳴り響く。

「柚穂?」

通話ボタンを押せば、聞こえてくるのは嗚咽ばかり。

「大丈夫、大丈夫だよ」

いつものように言い聞かせて、電話を切る。

「……協力する、何でも」

「助かるわ。でも、一つ聞いても良いかしら」

なんで、わたしの言葉を疑わないの。

「信じないよりも、信じる方が楽だから」




ドアの外にいたのは、二十代後半ぐらいの、スーツ姿の男だった。

がっしりとした体格で、男の体で外の景色の大半が隠されてしまっている。

てっきり柚穂だと思って出迎えたから、思わずチェーンを外す手を止めてしまった。

「この子の知り合いの方、ですよね?道に座り込んで動けなくなってたので、ここまで運んできたんですけど」

この子、と示された方には、ドアの影になっていて気づかなかったけれど、男の肩を借りて柚穂が立っていた。

「ありがとうございました」

男の肩に回されていた柚穂の腕を取ったものの、柚穂は完全に男に支えられて立っていたようで、のしかかった重みによろめいてしまう。

結局は男の手を借りて、玄関に座らせた。

「大丈夫だよ」

柚穂の虚ろな瞳を包むように、頬に手を当てる。

「俺はこれで」

男は、一度は背を向けたけれど、柚穂の怒鳴り声に驚いて振り返った。

「大丈夫なわけないじゃん!」

振り払われた手を握って、愛里に目配せする。

静観していただけだった愛里は、ようやく立ち上がって隣に並んだ。

「話があるの。聞きたい?」

今度こそ出て行こうとした男を、愛里は引き留めた。

「あなたにも聞いてるのよ」

勢いよく振り返った男の表情は、苦しげに歪んでいた。

「あなたは……息子さん、だったかしら」

「なんで知ってるんだ!」

男は拳を固く結ぶ。

「あなたは柚穂の様子を見て、自分と同じかもしれないと勘付いた。だから柚穂を運ぶふりをして、話を聞き出そうとした。違う?」

考えてみれば、いくら放っておけそうになかったからと言って、明らかに様子のおかしい女子高生を連れて歩くなんて、不審者に間違われることを恐れて普通ならできるわけがない。

第一、道で具合の悪そうな人を見つけたら、救急車か警察を呼ぶのが妥当な選択肢だ。

「この人も?」

「だから話があるって言ってるのよ」

愛里は柚穂の頭にそっと手を置いた。

「あなたも、ですか?」

頷いて、しばし互いの顔を見つめ合う。見覚えがある気がしたのは、わたしだけではないようだった。

「この前、駅にいた人……?」

男は手を打った。

「ブログに書き込んでいたのはあなたたちだったのか!」

「ブログ……?」

「ブログですよ、同じような状況になっている人は駅前に集合してほしいっていう」

男の言葉で、柚穂に頼んでブログに書いてもらった内容を思い出す。

「忘れてたっ」

自分から呼び出したくせに、約束をすっかり忘れていた。

柚穂と出会った翌日、夕方までに帰ってこなければならないと意識していた理由はこれだったのだ。

「忘れていたんじゃない、忘れさせたのよ」

愛里が頭を撫でた途端、柚穂が崩れ落ちる。

「柚穂!」

抱き起こすと静かな寝息が聞こえた。

「寝かせただけよ」

愛里は柚穂の左手を持ち上げて、手首を見せる。

加減せずに掴んでいたようで、指の形の跡が残っている。

開いた口が塞がらないといった様子の男に、愛里ははっきりと言い放った。

「わたし、人じゃないの」

愛里は先ほどしたように、男にも話はじめた。

その間に柚穂を引きずるようにしてベッドまで運び、なんとか寝かせる。

幸せそうな寝顔を見たら、その手を握らずにはいられなかった。

「終わりました?」

会話が聞こえなくなったのを見計らって玄関を覗き、呆然と立ち尽くす男を部屋の中に上がらせる。

居心地が悪くなってテレビを点けても、誰も喋り出そうとはしなかった。

「このまま何もしないでいた方が、あなたたちにとっては幸せなのかもしれない」

沈黙を破ったのは愛里だった。

「すべて忘れてしまえば、あなたたちは日常に戻れるわ」

このまま何もしないでいれば、准のことを考えて苦しまなくて済む。

精神的にも肉体的にも疲弊している今となっては、その言葉にほんの少し、魅力を感じてしまう。

力の抜けた手の中から、柚穂の手が滑り落ちる。

「ふざけるな!」

甘い囁きを蹴散らしたのは、男の声だった。

「そんなの、本当の幸せとは違うだろう!」

「きれい事ね!断言するわ、あなただって息子のことを忘れたら、別の子供をつくってその子と笑い合うのよ!なのにどうして幸せじゃないって言えるの!」

「その子だって俺の子だ、俺は幸せだろうな!でも、裕樹に代わりはいないんだ!お前は俺たちに協力してほしかったから話したんじゃないのか!」

「そうよ!だから半端な覚悟でいられたら困るのよ!」

愛里の言葉は男に向けられているようで、違っていた。

視線はずっと、わたしを射抜いたまま。

愛里が試しているのは、わたしの覚悟だった。

柚穂の手を持ち上げて、もう一度包み込む。

「わたしたちは、人なの」

愛里たちのように合理主義的に生きてはいられないし、ばかなことばかり繰り返す。

「だからわたしは、愛里に協力する。絶対、途中で逃げたりしない」

たとえ友達のような関係のままでもよかった。

なんで、気づけなかったのだろう。

准と一緒にいられれば、ただそれだけで十分だった。

甘い雰囲気なんてなくても、二人でたわいもない話をしたり、互いのいたずらに怒り合ったり、同じ空間で違う作業をしたり。

あの日々は、輝いていた。

「愛里の言う通り、忘れればまた、幸せになれるかもしれない。でも、それじゃだめ、代わりはいない、そう思うのが人なの」

そんな言い分が理由にならないことぐらい、わかっている。

理詰めで問われたら、言葉に詰まってしまうだろうが、それが感情というものだ。

「好きになるのに理由はいらない、ねえ」

ぽつりと愛里がこぼしたのは、よく耳にする言葉だった。

「あなたたちって、やっぱりよくわからないわ」

「わたしも、自分のことがよくわからない」

愛里はこの部屋に入って初めて、頬を緩めた。

「これが、愛おしいって感情なのかしら」




タイムセールを知らせる放送を尻目に、先ほどから同じ棚の前に居座っていた。

「典型的な一人暮らしね」

夕暮れ時のスーパーは大勢の主婦たちで賑わっているのに、生鮮食品のコースを外れてしまえばわりと静かなものだ。

目立つ愛里を人の多い場所に連れて行きたくなかったから、助かったと一息つく。

変装をしないなら付いて来ないでと言ったのに、自信ありげに身に付けていたのはサングラスのみだった。

「料理する気になんてなれないし」

お買得商品のパスタと、一番安いパスタソースをいくつかかごに放り込む。その下で、レトルト食品や特売の冷凍食品が潰れていた。

「便利な世の中だよねー」

下手に自分でつくるよりもよっぽどおいしい上に、つくるのも簡単。だから料理ができなくたって困らないと主張すれば、あからさまに話を流された。

「食欲はあってよかったわ」

「……食べなきゃ、生きていけないから」

思っていたよりも重くなってしまったかごを持ち直すと、愛里はわたしの手からかごを取り上げ、軽々と持ってみせた。

「意外と力持ちなんだ」

「人の基準と一緒にしないで」

不思議な心地だった。

こうしていると、人であるようにしか思えない。

「ときどきね、人が羨ましくなるの。不器用でも、意地汚くでもいいから、未来に夢見てみたいわ」

レジに並ぶ列の最後尾について、隣り合って立つ。

「わたしたちはずっと同じ仕事を繰り返して、やっと死んで生まれ変わっても、また同じ仕事を繰り返すだけ。それ以外の生き方なんてないの」

「もし愛里が人だったら、何がしたい?」

「恋したいわ」

即答した愛里がかわいらしく思えて、親が子にするように、わたしより高い位置にある頭をポンポンと叩いた。

「愛里にそう思わせるなんて、瑞人さんってすごい人なんだね」

「もちろんよ」

自信に溢れた発言に吹き出すと、愛里はむっとして顔を背けた。

「だって、ちょっと冷たいところもあるけど、愛里って本当の人間みたいだし。きっとそれを与えてくれたのは、全部瑞人さんなんだろうなって」

愛里は肯定も否定もせずに前に並ぶ人との間隔を詰めたけれど、ほのかに赤く染まる耳が、すべてを肯定していた。

「ねえ、愛里は何をしようとしてるの?」

顔を上げた愛里はもう、サングラス越しにいつもの鋭い眼差しを放っていた。

「わたしが考えていることがうまくいけば、瑞人が生き返る可能性がある。もちろんあなたの恋人も。今回は大規模だって言ったでしょう、その隙を突く」

あまりにあいまいな言い様で、それにはぐらかされるつもりはなかった。

愛里は協力してほしいと言いながら、何をしてほしいのか、一度も口にしようとしなかった。

どちらにしろ、愛里の言うことに従うしかないが、協力者として話を聞く権利ぐらいはあるはずだ。

「わたしは何をすればいいの?」

「今はまだ、言いたくないの。もしかしたら、他に方法があるかもしれないから」

おそらく愛里が考えている策は、わたしにとってあまり良い方法ではないのだろう。

准が戻るならなんだってかまわないのだけれど、それを口にしたら愛里に話を白紙に戻されてしまいそうな気がして、それ以上追求はできなかった。

「二人を生き返らせて、愛里は大丈夫なの?」

「瑞人が幸せなら、わたしはそれでいいわ」

それはまるで、自分に言い聞かせているようだった。

「自分と引き替えに、瑞人さんを生き返らせるの?」

「わたしの身勝手だってことぐらいわかってるわ。でも、償わなければならないの……瑞人のことを、わたしはずっと利用していた。好きになる前も、その後も。瑞人だけは本当のわたしを見てくれている気がして、離れられなかったの」

作り物の「愛里という人間」ではなく、瑞人さんはきっといつだって、愛里自身に対峙していた。

それは愛里にとってはじめての経験で、何事にも代えがたいものだったのだろう。

「良い方法が見つかるといいね」

愛里は目を細めて頷いた。

「そう言えば、あの子から連絡はあったの?」

会計の順番になり、レジにかごを乗せる愛里の隣でバックの中から携帯を取り出す。

「まだ」

「変なことしてないと良いけど」

愛里の言うとおりだった。

柚穂は昨日、目覚めると、あんな不安定な状態にも関わらず帰ると言って聞かなかった。

何度も泊まっていけばいいと勧めたけれど、ことごとく却下されて、家に着いたら必ず連絡をするようにと言い聞かせることで妥協した。

なのに、連絡はないまま。

こちらから連絡を取ろうとしてみても、繋がりもしない。

本来ならすぐにでも捜しに行くところだったが、愛里の話では、柚穂は死ぬ予定はないから大丈夫ということだった。

「噂をすれば、柚穂だ」

手の中で携帯が震え、柚穂の名前が表示される。

「もしもし」

通話ボタンを押したものの、相手の剣幕に思わず耳から携帯を離してしまった。

「どうしたの?」

「柚穂の携帯から電話が来たんだけど、どう考えてもおばさんの声がして……」

財布を柚穂に託して、列を抜ける。

「柚穂の、お母さん、ですか?」

早口にまくし立てるその声に投げやりに相づちを打って、話の先を促す。

声の焦り様から、ただならないことが起きていることだけはわかる。

「何があったんですか?」

次の瞬間、聞こえた単語に耳を疑った。

会計を済ませ、かごを運んでいた愛里の腕を掴む。

「柚穂、柚穂が……」

「落ち着いて、柚穂がどうしたの」

掴む手に力を込める。

「死なないって、言ったじゃない」

柚穂が、自殺を図った。




「リストカット、ねえ」

ベッドに横たわる柚穂を見て、愛里は舌打ちした。

母親は娘が自殺を図ったと電話口で騒いでいたけれど、柚穂の腕には大きな絆創膏が一枚貼られていただけだった。

気が抜けて、ピンクのラグの上に腰を下ろした。

「どうせお母さんが大げさに言ったんですよね、すみません」

「柚穂が無事なら、それでよかった」

知らぬ間に持ち出されていたという携帯を取り戻して、柚穂は仰向けになったままおかしなところを見られていないか調べていた。

「リダイアルしたのか。履歴の一番上が未花さんでよかった」

立ったままだった愛里は、腰を折ったかと思うと、柚穂の手から携帯を取り上げて、その頬を両手で包むようにして自分の方に向かせる。

「ねえ、なんでこっちを見ないの?」

「ちょっと愛里」

愛里は一向に手を離そうとはしなかった。

「本当に、リストカットするつもりだったの?」

問われて、柚穂は目線を下げた。

「こっちを見なさい」

威圧のこもった声にびくりと肩を振るわせて、柚穂は愛里の瞳を盗み見た。

「……自殺、したつもりだった」

「どういうこと!?」

「こういうことよ」

愛里に腕を小突かれて、柚穂は顔をしかめる。

「痛くてよかったわね。死んだらそれでおしまいよ」

愛里は我が物顔でソファに腰掛けて、手近にあった卓上カレンダーを手に取った。

「まだ意味がわからないんだけど」

返事はなく、カレンダーを捲る音だけが聞こえていた。

「タイムリミットが近いわね」

カレンダーをデスクに戻して、愛里は立ち上がった。

「言ったでしょう。死なないって」

「まさか」

「正確に言えば、わたしたちが止めるから死ねないって言った方がよかったわね」

柚穂の自殺は、愛里の仲間たちによって阻止された。

柚穂が死ねば良かったと言いたいわけではないけれど、こんなかたちで生かされるなんて、耐えられない。

「こんなのって!」

 好き勝手に弄ばれて、これではまるで、わたしたちは。

「死にたかったのに」

柚穂の目線は、どこか遠くを彷徨っていた。

愛里は瞼をその手で覆い隠す。

「寝てなさい。いろいろあって疲れたのよ」

次の瞬間には、昨日と同じように、柚穂は小さな寝息をたてはじめた。

「今は、力を使ってほしくなかったな」

柚穂の状態を考えれば、こうした方が柚穂自身のためだということはわかる。

それでも、わたしたちは愛里たちに逆らえないのだという現実を、見せつけてほしくなかった。

「……ごめんなさい」

「愛里?」

愛里は頭を伏せて、シーツを両手で握りしめていた。

直感が、愛里の謝罪がわたしの言葉に対する謝罪だけではないことを告げる。

「ねえ、今、何をしたの?」

手繰り寄せられたシーツの皺が、深く刻まれていく。

「記憶も、消したわ」

「……どれくらい?」

「わたしたちのこと、それから、この子が取り戻したい、大切な人のことも」

「ふざけないで!早く記憶を戻してよ!柚穂にとってどれだけ友達のことが大事かって、この状態見てわかったでしょ!」

「だからよ。もう、この子は限界だわ」

「限界だから忘れた方がましってこと?それじゃあ、愛里だって変わらないじゃない!」

振り返った愛里の視線は、いつものような鋭いものではなかった。

精神的な疲れなのか、力を使った代償なのか、憔悴しているように見えた。

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