出会い
ぼんやりとした頭で時計を見上げて、もう一度目を瞑る。
やってしまった。
大学はそろそろ昼休みも終わろうとする時間。
今から支度をしても午後の授業には間に合わない。
手探りで枕元にあるはずのリモコンを探し出し、テレビの電源を入れる。
寝る前にテレビを見る習慣ができたおかげで、リモコンの定位置はそこになっていた。
昼の情報番組は中盤にさしかかっていて、ドラマの番宣に来たゲストが紹介される。
人気俳優と、その共演者である愛里の姿があった。
そう言えば、ヒロインのライバル役として出演すると、数日前にコンビニで立ち読みした雑誌に書かれていた。
愛里のことはモデル時代から好きだった。
番組表を呼び出して録画予約をしてから、枕元に置かれた携帯を取る。
履歴の先頭にはゆきの名前があった。
夢では、なかったらしい。
「もしもし」
体を起こしてリダイアルすると、2コールも鳴らないうちにゆきが出た。
「おはよー」
「おはよーって今起きたの?やっぱり朝の電話のとき、寝ぼけてたでしょ」
「う、うん。ごめんね。変な電話しちゃって」
「未花がおばかなのはいつものことだから気にしてないよ。結局准って人はなんだったの?未花の妄想?」
ばかにされたのに、ふざけて言い返す余裕もなかった。
「……本当に、覚えてないの?」
「覚えてないも何も、未花に彼氏がいたってこと自体初めて聞いたんだよ?未花はわたしに話した気になってたのかもしれないけど、友達としてショックだったんだからね」
枕元のクッションの端を握りしめる。
「……この前、ゆきの部屋に行ったときのことなんだけど」
「この前って、女子会したときのこと?」
女子会の意味ってなんだったかと、一瞬頭の中の辞書を引っ張り出す。
どう考えても、女子しかいない集まりのことだった。
ゆきは他人を部屋に上げたがらない。
わたしの記憶違いでなければ、ゆきの部屋に行ったのはダブルデートをした一度きりだ。
わたしがおかしくなったのか、それとも、昨日の空白の時間にゆきを怒らせて、本当のことを言ってもらえないのか。
「……また、女子会したいね」
「今度は未花のうちでね。今起きたってことは授業間に合わないでしょ?今度ノート貸してあげるから、何かおごってね」
「……うん」
そのあと少し会話のやりとりが続いたが、上の空で、何を話したか思い出せなかった。
通話を終えてから、高校時代の友達の連絡先を探す。
数回の呼び出し音の後に、昨日の同窓会にも出席していた同級生の声がした。
「昨日は途中で帰ってごめんね。実は准のアドレスを間違えて消しちゃってさ。教えてくれない?」
テレビ画面は愛里のアップになり、笑顔で番組の決めポーズをしていた。
ボートに乗ってみたいと言われて、近所の公園に出かけた。
悪天候のため営業中止。
係員のおじさんは申し訳なさそうに曇り空を指さして、営業中と書かれたプレートを裏返した。
お互いに顔を見合わせて、そこまで気が回らなかったことを笑い合う。
公園を散策するうちに雨粒が落ち始めて、あっという間に、急遽購入したビニール傘を土砂降りの雨が叩く。
肩が濡れるとお互いに一つの傘を奪い合ってはしゃいだ。
そこに甘い空気はなかったけれど、二人でいれば、あまり好きではない雨の日もたのしかった。
下校途中の高校生を眺めて、ほんの数ヶ月前の自分たちを懐かしんだ。
池の畔の古びたベンチに腰かけて、揺れる水面をじっと見つめる。
風が吹くたびに、ボートに乗った親子連れがオールを漕ぐたびに、波紋が描かれる。
ベンチから少し離れて、池を覗き込む一組のカップルがいた。
女が池に餌を撒くたびに、騒がしく水が跳ねた。
餌付けされた鯉たちが、我先にと群がっている。
しゃがんでいた女が立ち上がり、斜め後ろに立つ男の手を引いた。
男は自分を呼ぶ声を聞くと、ゆっくりとしゃがむ。
女から餌の入った袋を手渡されて、おぼつかない手つきで2、3粒投げた。
何を話しているかは聞き取れなかったが、二人が顔を見合わせて笑い合うのを見た瞬間、あのときの、准の屈託のない笑顔が頭を過ぎった。
鳴らない携帯を握りしめて、ぼんやりと、二人を見続ける。
数分だったかもしれないし、数十分経ったかもしれない。
餌をやり終えた二人は、立ち上がって、わたしの方に向かって歩き出した。
二人の目をみることができずに、そらそうとして、その顔が見覚えのあるものであることに気づく。
意志の強そうな、整った顔立ち。
「愛里?」
昨日テレビで見たばかりの愛里は、帽子やサングラスと言った変装を全くしておらず、かえって本物ではないのかもしれないという考えを抱かせるほど素のままだった。
愛里はわたしを一瞥すると、それ以上気に留める様子もなく通り過ぎる。
「どうしたの?」
「なんでもない」
背後で、男の声に答える愛里の、抑揚のない声がした。
あの愛里にも、大切な人がいて、幸せに過ごしている。
「……准」
会いたい。
続けられなかった言葉の変わりに、手を握りしめる。
愛里が振り返るような気配がしたが、憧れの芸能人に会えた喜びを今は感じることもできず、愛里の存在も行動も、今はどうでもいいものだった。
准の行方は依然としてわからないまま。
昨日、部屋の前でいくら待ち続けても准が帰ってくることはなく、辺りが寝静まった頃になって、帰宅してきた隣室の住人に声をかけられた。
部屋の前に座り込んでいた、見るからに怪しいわたしを追い払いたかったのだろう。
准が住んでいることをわたしは知っているのに、空き部屋の前で何をしているのかと問いかけられ、不審者扱いされる前に退散した。
知り合いには連絡を取り続けたが、相変わらず誰も准のことは知らないと言う。
今日は准がいる可能性のある場所を回って、最終的に行き着いたのがここだった。
「……悲しいことがあったんですか?」
愛里の隣にいた男が戸惑いがちに口を開く。
男は愛里の手を離すと、手にしていた白い杖をゆっくりと突き出しながら来た道を引き返す。
「行こう、瑞人」
男は愛里に杖を奪われ、次いで手を引かれて、しかたなく指示に従う。
「きっと、良いこともありますよ」
薄っぺらい言葉だったが、彼が口にすると、少しだけ励まされた気がした。
水面に映る月が、風に煽られては消え、また現れる。
いつの間にか、あたりには夜の帳が降りていた。
いつの間に、というのには少し語弊がある。
陽が傾いたことに、風が冷たくなったことに、賑わっていた声が聞こえなくなったことに、気づいていたのに、ここを動こうとしなかっただけ。
静寂の中、突然大きな水音が響く。
「え?」
音の正体を探って、池の中に少女の姿を見つける。
制服を着た、おそらく高校生の少女は、池の中央に向かって足を進めている。
月明かりに照らされたその表情は虚ろだった。
「だめ!」
走りながらパンプスを脱ぎ捨て、両足を池に突っ込む。
初夏とは言え、水温はそれほど高くない。
一歩進むたびに鳥肌が立った。
少女は尚も、歩き続けている。
やっとの思いで追いつく頃には、池の中心辺りまで来ていた。
背後から少女の両肩を力任せに掴む。
「……その、死にたくなるくらい辛いこともときどきあるけど、でも……」
なんと言って良いのかわからないまま言葉を並べ立てていると、少女の方から、落ち着いてくださいと宥められた。
目を見開いて、行き場を失った手を戻す。
「違うの?」
少女は首を素早く縦に振る。
恥ずかしさのあまり、顔が火照り出す。
「ご、ごめんなさい。てっきり自殺だと思って」
「わたしの方こそ、紛らわしいことをしてごめんなさい」
空に浮かぶ月を見上げた少女の視線を追う。
「見えた気がしたんです」
「何が?」
「いなくなった親友が」
「え、いなくなった?それって大丈夫なの?」
少女はわたしの目をまっすぐに見つめて、苦笑した。
「やっぱり、わたしの願望だったんだ」
呟いた少女は、自身の手を握りしめた。
「その子が学校に来なくて、連絡を取ろうとしたんです。でも携帯から連絡先が消えていて、みんなに聞いても、先生に聞いても、その子のことを知らないって言われました。わたしってこんな見た目と性格だから、友達もあんまりできなくて、きっと、その親友は、わたしがつくった妄想なんです。ごめんなさい、迷惑をかけて」
お姉さんに風邪ひかせるわけにはいかないですから、と引き返そうとする少女の両腕を掴む。
「それって、本当……?」
「え?」
「わたしも、なの」
背筋に冷たいものが走る。
それは足下から伝わる水の冷たさとは違う類のものだった。
「彼氏に連絡が取れなくなって、みんなに聞いたらそんなやつ知らないって言うし、いくら捜しても本人が見つからないの」
力が抜けたようにその場に座り込もうとした少女を、慌てて掴んだ両腕に力を入れて立ち上がらせる。
「よかった」
少女は掠れた声で呟いた。
「里沙は、いたんだ」
親友の名を呼び続ける少女を抱き寄せる。
「大丈夫だから」
それは、本当は自分が一番言ってほしい言葉だった。
「あっ」
腕の中で少女は、慌てたように胸ポケットを探った。
携帯を取り出して、何かを確認し始める。
「どうしたの?」
少女は携帯を差し出す。
「わたし、ブログにさっき言ったことを書いたんです。友達のことをみんなが忘れていて、わたしだけが覚えてる、って。書き込みがあっても、最初はわたしに話を合わせているだけなんじゃないかって、信じられなかったんですけど」
携帯のカーソルを押して画面を下に移していけば、何件もの似たような書き込みがあった。
自分も同じ状況下にいる、と。
これらが全て、本当だとしたら。
「ねえ、その人たちに会うことってできないかな?」
「できなくはないと思います」
「変だと思うんだ。信じたくないけど、SF映画みたいなことが起きてるんだよ……わかってるよ、自分が今どれだけおかしなことを口走ってるかなんて」
少女はわたしの腕をほどいて、その両手をそれぞれの手で握りしめた。
何も解決したわけではなかったけれど、一人じゃないというのは、それだけで救いだった。