出世払い
幸盛は今でこそ人から後ろ指をさされる公務員であるが、三十四歳で税金泥棒になるまでには職を転々とした。理由は、将来は小説家になりたいという無謀な野心があったからで、とにかく、小説を書くための時間が欲しかったからだ。
ゆえに、いつも金がなかった。「金がない」と断っているのに「奢ったるで」と飲みに誘ってくれる友人に対しては、肩身が狭い思いで「出世払いな」と幾度頭を下げたことか。
幸盛には魚釣りを通じて親しくなった友人が結構いる。だが、彼等の年齢や職業を知らないことも多い。つまり、釣り場限定の友人ということだが、そんな中に、同行者から「ゲンさん」と呼ばれている幸盛より少し若そうな男がいた。
最初に知り合ったのは三重県のとある筏で、その日は平日だったので三人で貸し切り状態だった。彼等はチヌ(クロダイ)だけを狙っていたが、欲張りな幸盛はアオリイカ用の仕掛けも準備してきていた。
早朝七時から筏に渡ったというのに、十時頃までは三人とも何も釣れなかった。「今日はボーズか」と、あきらめムードが漂い始めたとき、幸盛はやっと十五センチほどのアジを一匹釣り上げたので、そのアジでアオリイカを狙ってみることにした。三本イカリバリが二個ついた市販の仕掛けで、アジの背びれと尾びれにイカリバリを刺してアジを放すと、アジは勢いよく深場に向かって泳いで行った。
アジの動きが止まったところで糸ふけを取るためにリールをゆっくり巻いていくと、ずっしりとした手応えがあった。『いきなりアオリイカがアジに抱きついたのか?』と胸をときめかすと、重い手応えのままそれが動き始めたのでリールのレバーを開放した。五十メートルほど移動した場所でやっと動きが止まったので『あせるな、あせるな』と自分に言い聞かせ、幸盛はゆっくり数を数えた。これまでの経験から七つまで数えた瞬間が最もハリに掛かる確率が高い。『7』で幸盛は息を詰めてサオを大きくしゃくり上げた。
思わず「のった!」と声に出してしまったので、筏の対角線上後方にいた二人が驚いて幸盛の方を振り返った。ハリに掛かっているであろうアオリイカは、リールのドラグをジージー鳴らしながら必死で逃げようとする。心配なのはハリがアオリイカの足一本の先にしか刺さっていないような場合で、身切れしてしまってバラすことの方が多いのだが、どうやらこいつはガッチリ掛かってくれているようだ。
慎重にやりとりしながら少しずつ獲物を引き寄せてくる間に、二人は幸盛の横までやってきた。
「アオリだ」
「でかい」
アオリイカは網を見ると暴れるというので幸盛はギャフを用意して来ている。それを片手で持とうとすると、男の一人が「任せとけ」と言ってギャフを手にし、目前まで手繰り寄せてきたアオリイカの本体に引っかけた。アオリイカは墨を吐いて暴れる。
「やった」
「それにしてもでかい」
筏上までひっぱり上げたそれは、メジャーで足の先までの全長を測ると一メートルジャストの超大物だった。
このことがきっかけで三人は携帯電話の番号とメールアドレスを交換し、自分が釣りに行った日の釣果などを他の二人に教え合うようになった。しかしそれ以外の情報、つまり家族構成や職業などはその後三年が過ぎても知らずにいた。
それが、三月半ばの日曜日の昼過ぎに偶然にも知るところとなった。幸盛が家の近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら前日に行ってきた釣り情報を釣り仲間十人に送るために携帯に入力していると、なんと他県に住んでいるはずのゲンさんがスーツ姿で店内に入ってきたのだ。ゲンさんの方は幸盛に気づかず、一緒に入ってきた作業服の男の説明をいちいちうなずきながら聞いている。
仕事の邪魔をしてもいけないので声を掛けないでいたが、店を出るときに驚かせてやろうと二人のテーブルの前に行き、ゲンさんに声を掛けた。
「仕事ですか?」
彼は幸盛と認識して破顔するまでに三秒もかかった。
「山中さんはこの近くにお住まいでしたか?」
「車で五分のところです。たった今、昨日行ってきた釣りの結果をメールしましたから後で見てください」
「ありがとうございます。私もやっと来週には釣りに行けそうです」
幸盛はうなずき、テーブルにホットコーヒーが二つあるだけなのを確認してから伝票を引ったくって、じゃ、と言ってレジに向かった。「出世払いということで!」と言うゲンさんの声が追いかけてきたが、たったコーヒー二杯のことなので振り返らなかった。
車に乗ると携帯のメール着信音がしたので読んでみると、ゲンさんの相棒からのメールだった。
『ゲンさんは一流会社の社員で高給取りなので、確定申告が終わるまで釣りに行けないと嘆いています』
「はあ?」
* 文芸同人誌「北斗」 第569号(平成22年7・8月合併号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/