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第8話 蜘蛛の糸

 チューリップの泡が弾けてから、俺はまるで抜け殻のようになって、薄暗い小屋の中に閉じこもっていた。時間がどれだけ過ぎたのか、昼なのか夜なのかもよく分からない。ただ、虚ろな目で天井のシミを眺めたり、壁の木目を数えたりして、時間がいたずらに過ぎるだけの日々。腹は減っているはずなのに、天丼やら何やらを食べる気にもなれない。喉が渇けば、かろうじて水差しに残っていた生ぬるい水をすするだけ。体からは力が抜け、立ち上がるのさえ億劫だった。


 もう何もかもどうでもよかった。失った金のことも、膨れ上がった借金のことも、考えるだけで頭が割れそうになる。考えないようにしようとすればするほど、絶望的な現実が重くのしかかってくる。俺の人生は終わったんだ。あの輝かしい未来も、ささやかなスローライフの夢も、すべて幻だった。俺に残されたのは、この薄汚い小屋と、借金取りへの恐怖だけだ。


 時折、ドアを乱暴に叩く音が聞こえた。おそらく金貸しの手下だろう。俺は息を殺し、死んだふりをしてやり過ごした。彼らが諦めて立ち去る足音が遠ざかる音を俺の耳が拾うと、どっと疲労感が押し寄せる。こんな日々が、いつまで続くのだろうか。


 そんなある日、ドアを叩く音が、いつもよりしつこく続いた。金貸しか? いや、違う。もっと遠慮のない、それでいてどこか聞き慣れた叩き方だ。


「おい! マレイン! いるのは分かってるんだよ! 開けな!」

 クラーラの声だ。俺は無視を決め込もうとしたが、彼女は諦めなかった。

「いつまでそうやって、虫のみたいにうじうじしてるんだい! さっさと起きな! あんた、何日も何も食ってないだろう!」

 やがて、業を煮やしたのか、ガタピシと音を立てて、無理やりドアが開けられた。カンヌキはかけていたはずだが、栓抜きの前ではコルクが無力なように、老朽化したドアは彼女の前では無力だった。


 眩しい外光と共に、クラーラが仁王立ちになっていた。彼女は小屋の中の惨状――散らかったゴミ、埃、そして隅でうずくまる俺の無様な姿――を一瞥すると、大きなため息をついた。

「……まったく、ひどい有様だね。男の独り暮らしはこれだから……。ほら、これでも食べな」

 彼女は、持ってきたバスケットから、まだ湯気の立つパンと、チーズの塊、それに水差しを取り出し、汚れたテーブルの上に無造作に置いた。


「……いらない」

 俺は、か細い声で呟いた。彼女の同情(と俺には思えた)を受けるのが、たまらなく屈辱的だったからだ。

「いらないじゃないよ! いいから食いな! 死にたいのかい?」

 クラーラは語気を強めた。その有無を言わせぬ迫力に、俺は逆らう気力もなかった。震える手でパンを掴み、口に運ぶ。久しぶりのまともな食べ物の味が、乾いた喉と胃に染みた。涙が、勝手に頬を伝わった。情けなくて、悔しくて、そして、ほんの少しだけ、温かい食べ物のありがたさが身に染みて。


「まったく……あんただけじゃないんだよ、あの馬鹿げたチューリップで酷い目に遭ったのは。アムステルダスじゃ、運河に身を投げた者もいるって話さ。それに比べりゃ、あんたはまだマシな方だよ。生きてるんだから」

 クラーラは、俺がパンをかじるのを黙って見ていた。

「……でも、俺は全部失ったんだ。金も家も……もう何もかも……」

「馬鹿言いなさんな。家も土地も、まだここにあるじゃないか。借金? そりゃ大変だろうけど、働けばいつかは返せるかもしれない。命まで取られるわけじゃないだろう?」

「働けばって……どうやって……」

 俺にはもう、働く気力も、働く術も、何も思いつかなかった。


 クラーラは、それ以上は何も言わず、汚れた小屋の中を少しだけ片付けると、「また明日来るからね」と言い残して帰っていった。一人残された小屋の中で、俺は彼女が置いていったパンをゆっくりと食べ続けた。味がするというよりは、ただ生きるために、機械的に咀嚼する感じだった。


 別の日には、ディルクが黙って小屋の前に立っていた。彼は何も言わず、ただ、自分の畑で採れたらしい数個のジャガイモと玉ねぎを、ドアの前に置いて立ち去った。彼の無言の行為が、俺にはクラーラの言葉以上に重く感じられた。同情されている。憐れまれている。それが分かって、また惨めな気持ちになった。だが、俺はそのジャガイモを拾い上げ、暖炉の残り火で焼いて食べた。生きるためには、そうするしかなかった。


 クラーラやディルクが、以前と何も変わらず、黙々と畑仕事をしている姿を、小屋の窓からぼんやりと眺めることがあった。彼らはチューリップの狂騒には目もくれず、ただひたすら土と向き合い、作物を育て、日々の糧を得ている。その姿が、俺には眩しく見えた。そして同時に、腹立たしくもあった。なぜ、俺だけがこんな目に遭わなければならないんだ? 彼らは何も失っていないじゃないか。あのバブルがなければ、俺だって、もう少しマシな生活ができていたかもしれないのに…。そんな歪んだ嫉妬と自己憐憫(レンビン)が、絶望の中で渦巻いていた。


 そんなある日、食料が完全に底をつき、俺は仕方なく、数日ぶりに小屋の外に出た。目的は、村の唯一の酒場だ。金はないが、もしかしたら誰かが一杯おごってくれるかもしれない。あわよくば、いっぱい。あるいは、残飯でも分けてもらえるかもしれない。そんな浅ましい期待を抱いて、よろよろと酒場へ向かった。


 酒場の扉を開けると、喧騒の中に、聞き覚えのある声が響いてきた。

「……だから言っただろう! チューリップはもう終わりだ! だが、次の波は必ず来る! 今度は北の海で獲れるニシンだ! あれは必ず化けるぞ! 今のうちに権利を押さえておけば……」

 声の主は、バルテだった。彼は、カウンターの隅で数人の男を相手に、以前と全く変わらない調子で、次の儲け話を熱心に語っていた。チューリップバブルの崩壊など、まるで他人事のように。彼が撒き散らした熱狂によって、どれだけの人間が不幸になったかなど、微塵も考えていない様子だった。


 その無責任な姿を見た瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。腹の底から、激しい怒りが込み上げてきた。こいつだ! こいつが、俺の人生を狂わせた元凶の一人だ! 俺は、衝動的にバルテに掴みかかろうとした。しかし、足がもつれてその場にへたり込んでしまう。体力も気力も、もう残っていなかった。


 バルテは、俺に気づくと、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの軽薄な笑みを浮かべた。

「おお、君か。久しぶりじゃないか。少し見ない間に、ずいぶんとやつれたじゃないか。チューリップで少し損でもしたのかね? まあ、いいさ。人生には浮き沈みがつきものだ。それより、今話していたニシンの話、君も聞かないか? これは間違いなく次の……」


 俺は、彼の言葉を最後まで聞く気になれなかった。ただ、込み上げてくる吐き気と、どうしようもない虚しさを感じていた。怒りさえ、もうどうでもよくなっていた。こいつは、ただの空っぽな語り部なのだ。俺は、こんな男の言葉を信じ、踊らされていたのか……。


 俺は、ふらふらと酒場を後にした。帰り道、ふと、小屋の隅にしまい込んでいた古いビラの束を思い出した。チューリップ投資を煽る派手なビラ、そして、その前に俺が希望を託した、「節約でスローライフ」を謳うビラ。どちらも、今の俺にとっては、ただの虚しい紙切れだった。


 小屋に戻ると、俺はそのビラの束を探し出し、暖炉の中に放り込んだ。乾いた紙は、あっという間に炎に包まれ、灰になっていく。俺の気分は相対的にハイになっていく。


 その夜、またクラーラがやってきた。彼女は、暖炉の灰を見て何かを察したようだったが、何も言わずに、温かいスープを差し出してくれた。


「……クラーラさん」

 俺は、ぽつりと言った。

「俺は……どうすればよかったんでしょうね……」


 クラーラは、スープをかき混ぜる手を止め、じっと俺の顔を見た。

「さあね。あたしにゃ分からないよ。でもね、マレイン」

 彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。

「スローライフってのはね、綺麗な絵や詩の中にだけあるもんじゃないんだよ。あんたが夢見てたような、花畑で昼寝してりゃ金が湧いてくるようなもんでもない。毎日ちゃんと腹を満たして、明日もまたこうして、隣人と馬鹿話でもして笑ってられることさ。それには、地道な仕事と、ちょっとの余裕が必要なのさ。それだけだよ」


 彼女の言葉は、何の飾りもない、素朴な言葉だった。だが、その言葉が、なぜかこの時の俺の心には、すとんと落ちた。腹を満たして、明日も笑えること……。それは、俺がチューリップの狂騒の中で、完全に忘れていたものだった。


「……じゃあ、俺は……これから、どうすれば……?」


 答えはすぐには見つからない。絶望の淵から這い上がるのは、容易ではないだろう。だが、クラーラの言葉は、暗闇の中に差し込んだ、ほんのわずかな光のように感じられた。初めて、他人のせいにするのでも、自分を憐れむのでもなく、「これからどうするか」という問いが、俺の頭の中に、朧げながらも浮かび上がってきた気がした。「46」という数字も遅れてやってきたが、その意味はよく分からなかった。


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