第7話 阿鼻叫喚地獄、ここに在り
それは、ある朝、本当に突然のことだった。いつものように市場へと足を運んだ俺は、異様な雰囲気に気づいた。昨日までの狂騒的な熱気が嘘のように消え失せ、代わりに重苦しく、張り詰めた空気が漂っていたのだ。人々は皆、青ざめた顔で押し黙り、市場の隅に張り出された価格表を、食い入るように見つめていた。
俺も吸い寄せられるように価格表に近づき、そして、そこに書かれた数字を見て、全身の血が凍りつくのを感じた。
『アドミラル・リフケン』……昨日まで銀貨500枚の値をつけていたはずが、今は100枚。
『パロット・ブルー』……銀貨800枚から、わずか150枚へ。
そして……俺が全財産と借金を注ぎ込んだ、『オーガスタス・プライム』の権利書は……? 価格欄には、ただ冷たく「取引停止」の四文字が記されているだけだった。
「……嘘だ……」
声にならない声が漏れた。何かの間違いだ。印刷のミスか? それとも、誰かの悪質ないたずらか? 俺は隣にいた男の肩を掴み、叫ぶように尋ねた。
「おい! これはどういうことだ!? なぜ『オーガスタス』が取引停止なんだ!?」
男は、虚ろな目で俺を一瞥すると、力なく首を振った。
「……もう終わりだよ。アムステルダスで、大手商会の手形が不渡りになったらしい。それをきっかけに、昨日から一斉に売りが殺到して…もう、誰も買い手がつかないんだ……」
終わり……? 何が終わりだっていうんだ? 理解が追いつかない。頭がぐらぐらする。だって、昨日まで、俺は億万長者になるはずだったんだ。豪邸を買って、船を買って、一生遊んで暮らすはずだったんだ!
市場は、静寂から一転、地獄のような混乱に包まれ始めた。
「どうしてくれるんだ! 俺の全財産だぞ!」
「金返せ! この詐欺師どもめ!」
「俺の『センペル・アウグストゥス』が、ただの紙切れだと!?」
悲鳴、怒号、泣き声。昨日まで夢を語り合っていた人々が、今は互いを罵り合い、掴み合いの喧嘩を始めている。価値のなくなった球根の権利書が、紙吹雪のように宙を舞い、泥の中に踏みつけられていく。金貸しに詰め寄られ、土下座して命乞いをする男もいる。まさに、阿鼻叫喚地獄。俺は、その場で立ち尽くすことしかできなかった。足が、地面に縫い付けられたように動かない。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。ふと我に返り、震える足で隣のヨーリスの小屋へと向かった。あいつなら、何か知っているかもしれない。あいつと話せば、まだ何か、希望が見つかるかもしれない。
しかし、ヨーリスの小屋はもぬけの殻だった。いや、もぬけの殻どころか、借金取りに踏み込まれたのだろう、ドアは壊され、中はめちゃくちゃに荒らされていた。ヨーリスの姿はどこにもない。ただ、床に一枚の書き置きが残されているだけだった。
『マレイン、悪いな。俺はもう、この国にはいられない。達者でな』
……逃げやがった。あいつ、俺を置いて、借金を踏み倒して、逃げやがったのか! 昨日まで、一緒に夢を語り合った仲間じゃなかったのか!?
裏切られた、という思いよりも先に、強烈な恐怖が俺を襲った。ヨーリスが逃げたということは、つまり、俺も……? 金貸しの、あの血走った目を思い出す。俺がサインした、あの高利の借金の証文を思い出す。
「うわあああああああっ!!」
俺は、たまらず叫び声を上げていた。自分の小屋へと転がるように戻り、震える手でドアに内側から閂をかけた。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っている。寒い。体の芯から凍えるように寒い。
どうして? なぜ、こんなことになった? 俺は、ただ、少しでも楽に生きたかっただけなのに。スローライフを手に入れたかっただけなのに。あのバルテが言ったんじゃないか! チューリップこそが自由への道だって! 市場の誰もが、儲かるって言ってたじゃないか!
そうだ、俺は悪くない! 悪いのは、俺を騙したあいつらだ! バルテだ! 市場を煽った連中だ! あいつらが、俺の夢を、俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!
怒りが、腹の底からこみ上げてきた。あの能弁な詐欺師、バルテを引きずり出して、問い詰めてやりたい。市場で俺に球根を売りつけた男たちを殴りつけてやりたい。しかし、その怒りが、どうしようもなく虚しいものであることも、心のどこかで分かっていた。彼らを責めたところで、失った金が戻ってくるわけでも、莫大な借金が消えるわけでもない。
結局、俺は……俺自身の愚かさのせいで、すべてを失ったんじゃないのか? クラーラやディルクの忠告に耳を貸さず、根拠のない自信と欲望に突き動かされ、身の丈に合わない夢を見て、破滅した。あの時、地道に畑を耕し続けていれば…。
いや、違う! 俺は悪くない!
自己嫌悪の芽生えを、俺は必死に否定した。認めてしまえば、もう立ち上がれない気がした。俺は悪くない。俺は被害者なんだ。そうだ、そうに決まっている。
しかし、その自己正当化も、圧倒的な現実の前では何の慰めにもならなかった。俺の手元に残ったのは、紙切れと化した数枚の権利書と、膨れ上がった借金だけ。スローライフどころか、明日食うことすらままならない有様だ。アムステルダスの工房で働いていた頃の方が、まだマシだったかもしれない。
俺は、小屋の隅で膝を抱え、ただただ震えていた。窓の外からは、まだ市場の喧騒と、絶望した人々の叫び声が聞こえてくる。かつて俺を熱狂させたその声が、今は断末魔の叫びのように響いていた。
もう終わりだ。何もかも、終わってしまった。俺の夢も、未来も、希望も、すべてが、あの儚いチューリップの泡と共に、弾けて消えてしまったのだ。