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第5話 リスク無くしてリターン無し

 俺がなけなしの銀貨をはたいて買った、あの小さな『ブーケ・プリムローズ』の球根。正直、買った後も半信半疑だった。こんなものが本当に金になるのか? 不安と期待が入り混じる中、俺は来る日も来る日も市場に足を運び、チューリップの価格動向を熱心に追いかけた。そして、購入からわずか一週間後、信じられないことが起こった。


 『ブーケ・プリムローズ』の価格が、俺が買った時の倍以上に跳ね上がったのだ! 市場の価格表を何度も見返し、自分の目を疑った。間違いない。今売れば、確実に利益が出る。しかも、かなりの額だ。


「う、売ります! この『ブーケ・プリムローズ』、買ってください!」


 俺は興奮で震える手で球根の入った布袋を掲げ、市場で一番威勢のいい声で叫んでいた買い手の男に駆け寄った。男はチラリと俺の持つ球根を見ると、こともなげに言った。「おう、『プリムローズ』か。いいだろう、銀貨30枚でどうだ?」


 銀貨30枚! 俺が買った値段の倍以上だ! たったの一週間で!


「は、はい! 売ります! ありがとうございます!」

 俺は夢見心地で球根を手渡し、ずっしりと重い銀貨の袋を受け取った。その重みが、現実感を伴って俺の脳を揺さぶった。やった……やったぞ! 俺は成功したんだ! 過労死ルートからの解放に、大きく近づいたんだ!


 市場からの帰り道、俺はスキップしそうな足取りを抑えるのに必死だった。握りしめた銀貨の袋が、まるで自分の才能と幸運の塊のように感じられた。そうだ、やっぱり俺には先見の明があったんだ! あの時、クラーラやディルクの忠告を無視して、自分の直感を信じて行動したからこそ、この成功がある! 彼らのような古い考えの人間には、到底掴めないチャンスだったんだ。


 俺は、その足で村の小さなパン屋に向かい、一番高い、白くてふわふわしたパンを丸ごと一つ買った。それから、食料品店で、普段は高くて手が出ない燻製肉と、小さな瓶に入ったワインまで買ってしまった。小屋に戻ると、俺はまるで祝宴を開くかのように、それらをテーブル(といっても粗末な板だが)に並べた。


久しぶりに口にする柔らかいパンの甘さ、燻製肉の塩気と香り、そしてワインの芳醇な味わい…。ああ、なんて美味いんだ! これだよ、これこそ俺が求めていた豊かな生活の一部だ! もうあの固い黒パンと塩漬けニシンの日々とはおさらばだ。俺はもう、貧しい船大工見習いでも、食うや食わずの惨めな移住者でもない。俺は、時代の波に乗った、賢い投資家なのだ!


 その万能感は、俺をさらに大胆にさせた。銀貨30枚の利益は確かに大きい。だが、これはまだ序章に過ぎないはずだ。もっと人気の、もっと高価な品種に投資すれば、利益は桁違いになるに違いない。そうだ、次はもっと大きな勝負に出るべきだ。


 そんなことを考えていた矢先、俺の小屋の隣に、新しい移住者がやってきた。ヨーリスと名乗るその男は、俺と同じくらいの歳恰好だったが、どこか軽薄な雰囲気を漂わせていた。彼はアムステルダスの織物工見習いだったが、チューリップの話を聞きつけ、「一攫千金で楽隠居」を夢見て村に来たのだという。


「よう、隣人! あんたもチューリップ狙いかい? 俺はね、もう目星はつけてるんだ。『センペル・アウグストゥス』は無理でも、『アドミラル・リフケン』あたりなら、すぐに手が届きそうだ。あれが手に入れば、もう一生働かなくて済むってもんさ!」


 ヨーリスは初対面の俺に、臆面もなくそんな夢物語を語ってきた。最初は、そのあまりの能天気ぶりに少し引いた。だが、彼もまた、俺と同じように「古い労働」から抜け出し、「新しい富」を掴もうとしている同志なのだと思うと、妙な親近感が湧いてきた。


「ああ、俺も少しばかりだが、この前『ブーケ・プリムローズ』で儲けさせてもらったよ」

 俺が少し得意げに言うと、ヨーリスは目を輝かせた。

「本当かい!? そりゃあすごい! やっぱり、俺たちのような若い世代には、時代の流れを読む才能があるんだよな! あの古い連中には、このチャンスは見えないのさ!」


「ああ、まったくだ。俺は近所の奴らにも色々言われたが、結局、俺の判断が正しかったってわけだ」

 俺たちはすぐに意気投合した。ヨーリスは、俺が抱いていた万能感をさらに増幅させてくれる、都合の良い話し相手だった。俺たちは日がな一日、どの球根が値上がりするか、儲けた金で何を買うか、どんな楽な生活を送るか、そんな話ばかりして過ごすようになった。畑仕事? そんなものは、もう完全に頭の中から消え去っていた。俺の小さな畑は、再び雑草が生い茂り始めていたが、気にもならなかった。どうせ、もうすぐこんな土地は必要なくなるのだから。


「なあ、マレイン。次はもっとデカいのを狙おうぜ。『リフケン』クラスなら、元手がかなりいるが…どうする?」

 ヨーリスが持ちかけてきた。俺も同じことを考えていた。しかし、手元の銀貨だけでは、到底足りない。

「……金を、借りるしかないか」

 俺は呟いた。以前なら考えもしなかったことだ。借金。それは、貧しい者がさらに貧しくなるための罠だと、アムステルダスや前世で嫌というほど見てきた。だが、今は違う。これは未来への投資なのだ。必ず何倍にもなって返ってくる。リスクなどないに等しい。そうだ、借りよう。そして、もっと大きな成功を掴むのだ。


 俺は村の金貸し――これもまた、いかがわしい雰囲気を漂わせた男だったが――の元へ足を運び、震える手で証文にサインをした。かなりの高利で、筆が震えたが、胸は高鳴っていた。どうせすぐに返せるのだから。前世での言葉を思い出す。「リスク無くして、リターン無し」。


「おい、マレイン。あんた、最近畑にも顔を出さないじゃないか。それに、なんだか身なりまで変わって…まさか、本当にあの博打に手を出してるんじゃないだろうね?」

 市場でクラーラに出くわした時、彼女は厳しい目で俺を睨みつけた。

「ふふん、クラーラさん。まあ、見ててくださいよ。俺がどうやって成功するか。あんたの言う『地に足つけた生活』なんて、もう古いんですよ」

 俺は、抑えきれない優越感を滲ませながら、そう言い放った。クラーラは呆れたようにため息をつき、何も言わずに立ち去った。ディルクも、俺の変わり果てた(と彼には見えたのだろう)姿を見て、ただ黙って首を横に振るだけだった。


 ふん、勝手に言ってろ。負け犬の遠吠えだ。俺はもう、お前たちとは違うステージにいるんだ。リスクを冒して挑戦したものこそが勝利を掴むんだ。


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