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第4話 掌サイズの全財産

 冬が近づくにつれて、ローウェンの大地だけでなく、人々の心にも奇妙な熱がこもり始めていた。その熱源は、ただ一つ――チューリップだ。アムステルダスでの狂騒は、もはや遠い噂話ではなく、身近の現実として俺たちの村にも押し寄せてきていた。


 村の小さな市場は、以前とは明らかに様子が変わっていた。野菜やチーズを売るいつもの露店の脇で、見慣れない男たちが小さなテーブルを出し、布に包まれた球根らしきものを並べている。その周りには黒山の人だかりができ、誰もが目を血走らせて値段を叫び合っていた。

「『アドミラル・ファン・デル・エイク』! 誰か持ってないか! 銀貨10枚出すぞ!」

「馬鹿言え、昨日アムステルダスじゃ銀貨20枚で取引されたって話だ!」

「こっちには『ヘネラル・ボウ』があるぞ! 見ろ、この見事な筋入り! これが咲いたらどんなに美しいか!」


 聞こえてくるのは、品種の名前と、信じられないような金額ばかり。俺が春に汗水流して収穫した小麦とジャガイモを全部売っても、足元にも及ばないような金が、たった一つの球根に支払われようとしている。馬鹿げている。そう思うのに、俺はその異常な熱気から目が離せなかった。人々は、まるで何かに取り憑かれたように、目の前の球根に未来のすべてを賭けようとしていた。


 そして、その熱狂をさらに煽り立てる声があった。話師バルテだ。彼は今や、村の市場にも頻繁に顔を出すようになっていた。以前のような素朴なスローライフの話は、もう彼の口からは聞かれなかった。彼の語りは、完全にチューリップ一色に染まっていた。


「聞け、諸君! 時代は変わったのだ! もはや汗水流して土を耕す時代ではない!」


 市場の一角で、木箱の上に立ったバルテは、集まった人々に向かって叫んでいた。その声は以前にも増して大きく、扇動的だった。

「見よ、この小さな球根を! これこそが、我々を貧困と労働から解放する、神が与え給うた奇跡なのだ! これ一つあれば、もはや節約などというみみっちい苦労は必要ない! 一夜にして、貴族のような暮らしが手に入るのだ! スローライフ? それはチューリップが生み出す富によってのみ、真に実現されるのだ!」


 彼の言葉は、まるで強力な酒のように、人々の理性を麻痺させていくようだった。「そうだ!」「バルテの言う通りだ!」という熱狂的な声が飛び交う。俺もその人垣の中で、ゴクリと喉を鳴らしていた。節約なんて、みみっちい苦労……? 一夜にして、貴族のような暮らし…? 俺もまた、彼らと同じような心理になっていた。



 そうだ、俺は何をやっていたんだ? あくせく畑を耕し、わずかな収穫に一喜一憂し、来る冬に怯える。それが俺の求めていたスローライフだったのか? 違う! 俺が夢見たのは、もっと豊かで、自由で、何の心配もない暮らしだったはずだ! バルテの言う通りじゃないか。このチューリップこそが、その夢を実現するための、唯一の、そして最速の道なのかもしれない。


 ビラの内容も、いつの間にか完全に変わっていた。「節約で楽園」なんて文句はどこにもなく、代わりに踊っていたのは、「チューリップ投資で億万長者!」「富への最短ルートは球根にあり!」といった煽情的な見出しばかり。ご丁寧に、「初心者でも安心! チューリップ投資の始め方」なんていう、もっともらしい手引きまで載っている始末だった。


「あんた、最近またおかしな顔つきになってるよ」

 ある日、畑で石ころを取り除いている俺に、クラーラが呆れたように声をかけてきた。


「市場の連中みたいに、目がギラギラしてるじゃないか。まさか、あの馬鹿げた花の博打に手を出すつもりじゃないだろうね?」


「ば、馬鹿なこと言わないでくださいよ、クラーラさん。俺はただ、冬に向けてどうしようか考えていただけですよ」

 俺は慌てて否定したが、図星を突かれて内心ドキリとしていた。


「ふん。ならいいけどね。覚えときな。花で腹は膨れないんだよ。どんなに綺麗な花が咲いたって、腹が減っちゃあおしまいさ。地に足つけて、ちゃんと自分の手で稼ぐんだね」

 彼女はそれだけ言うと、自分の畑に戻っていった。


 ディルクも、俺が市場でチューリップの値段表(そんなものも出回っていた)を熱心に見ていると、隣に来て低い声で言った。

「……マレイン。あれは、危ない」

「危ないって、何がですか、ディルクさん?」

「…泡だ。すぐに弾ける。手を出すな」

 彼はそれだけ言うと、黙って立ち去った。


 クラーラもディルクも、きっと俺に嫉妬しているんだ。俺が、彼らの知らない新しい方法で成功しようとしているのが気に入らないんだ。そうだ、彼らは古い時代の人間だ。時代の流れが見えていない。だから、俺の可能性を潰そうとしているんだ。そう考えた俺は、もう彼らの「時代遅れ」な言葉に耳を貸す気はなかった。俺は、バルテが示す「新しい時代」に乗るんだ。


 しかし、決断するにはまだ資金が足りなかった。俺が持っているなけなしの貯金では、市場で叫ばれているような人気の球根は買えそうにない。どうする? 諦めるのか? いや、ここで諦めたら、一生後悔する。俺は絶対に、このチャンスを掴まなければならない。


 考えた末、俺は一つの決断をした。春に収穫した小麦とジャガイモ、そして冬のために備蓄していたわずかな食料の一部を、市場で叩き売ることにしたのだ。これで冬を越せるのか? その不安はあった。だが、チューリップで成功すれば、そんな心配はすぐに吹き飛ぶはずだ。これは未来への投資なのだ。リスクを取らなければ、大きなリターンは得られない。バルテもそう言っていた。


 そうしてかき集めた銀貨を握りしめ、俺は再び市場の熱狂の中へと足を踏み入れた。どの球根を買うべきか? 人気の品種は高すぎて手が出ない。だが、安すぎるものは怪しい。俺は市場を歩き回り、耳をそばだて、ビラに書かれていた「初心者向けの有望品種」という言葉を頼りに、一つの小さな球根を選んだ。『ブーケ・プリムローズ』という、比較的手頃な価格の品種だった。


「こ、これを一つください」

 俺は震える声で、球根を売る男に銀貨を差し出した。男は慣れた手つきで銀貨を受け取ると、小さな布袋に入った球根を無造作に俺に手渡した。ずっしりとした、とは言えない、頼りないほど軽い感触。これが、俺の全財産に近い価値を持つのか?


 球根を受け取った瞬間、俺の心臓は早鐘のように打っていた。高揚感と、言いようのない不安がないまぜになった奇妙な感覚。俺は、何かとんでもないことをしてしまったのではないか? いや、違う。これは、俺の人生を変えるための、最初の一歩なのだ。


「見てろよ……これで俺は、あの苦しい生活から抜け出してやる……!」


 俺は小さな布袋を固く握りしめ、足早に市場を後にした。背後では、まだ人々の狂騒的な声が響いていた。もう後戻りはできない。俺はこの球根に、自分の未来のすべてを賭けたのだ。失敗なんてありえない。絶対に成功させてみせる。


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