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第10話 泥に塗れて生きる。

 ローウェンに、再び春が巡ってきた。厳しい冬の間、俺はクラーラやディルクの手伝いを続け、わずかな食料と寝床を確保しながら、なんとか生き延びた。降り積もる雪を眺めながら、借金のことを考えると、今でも胸が重くなることはあった。だが、不思議と以前のような絶望感はなかった。


 そして、運河の氷が解け、大地が息を吹き返し、土の匂いが濃くなる季節がやってきた。農作業が本格化する春。それは、去年の俺にとっては、ただただ戸惑いと失敗の始まりでしかなかった季節だ。しかし、今年の俺は違った。


 もはや、誰かに言われて仕方なくやる「手伝い」ではない。俺は、村の一員として、自分の意志で畑に立っていた。クラーラやディルクと並び、時には他の村人とも協力しながら、鍬を振るい、種を蒔く。土を耕す腕には、いつの間にか船大工見習いの頃とは違う種類の、確かな筋肉がついていた。


 自分の小さな畑には、まず、この土地に合っているとディルクに教わった小麦の種を丁寧に蒔いた。それから、去年クラーラに笑われながらも、少しはマシに育てられるようになったジャガイモ。そして……畑の隅の、ほんの小さな一角に、俺は数個だけ、チューリップの球根を植えた。もちろん、かつてのような狂った投機目的ではない。ただ、春になったらささやかな彩りを添えてくれるだろう、というだけの、本当にささやかな楽しみのためだった。あの狂騒の日々を、少しだけ離れた場所から、静かに思い出すための自戒として。


 作業着は、あっという間に泥だらけになった。額から流れ落ちる汗が目に入り、目が痛む。風車がギーギーと軋む音、鳥のさえずり、そして仲間たちの声。それが、俺の新しい日常の音になった。かつて夢見た「運河で釣り、風車の下で昼寝」とは、ずいぶん違う。だが、この泥と汗にまみれた日常の中に、俺は不思議な充足感を感じていた。


 ある日、ディルクと並んで種蒔きをしていると、彼が珍しく、俺の泥まみれの姿を見て少し笑った。

「……話師の景気のいい物語じゃあ、お前さんのそんな泥んこの姿は、ちっとも出てこなかっただろうな」

 彼のぶっきらぼうな口調の中にも、揶揄い(カラカイ)だけではない、何か温かい響きが感じられた。俺は、自分の泥だらけの手のひらを見つめ、それからディルクに向かって、歯を見せて笑い返した。


「ああ、そうだな、ディルク。綺麗事ばっかりだった。でもよ……」

 俺は言葉を続けた。それは、この一年、俺が体と心で感じてきた実感だった。

「こうして泥に塗れている方が、なんだか…生きている心地がするんだ」


 ディルクは何も言わなかったが、彼の目元が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


 市場へ行けば、クラーラが相変わらず威勢よく自家製のバターやチーズを売っていた。俺が育てた(といっても、ほとんど彼らに教わったのだが)ジャガイモも、今年は「粒がそろっていて、味が良い」と評判が良かった。馴染みの客が、俺に向かって「あんたも、すっかり村の顔になったねえ」と声をかけてくれる。その言葉が、気恥ずかしくも、誇らしかった。


 夜には、時折、村の男たちと運河沿いの小さな広場に集まり、安いエールを酌み交わす。話題は、天気のこと、畑の作物の出来具合、家畜の話、そしてたまに、遠いアムステルダスの噂話。誰もチューリップの話はしなかった。それはもう、皆にとって過ぎ去った悪夢のようなものだったのだろう。


「まあ、今年もこうして、無事に収穫ができりゃあ、それで十分だな」

 誰かが言うと、皆が黙って頷く。俺も、その輪の中で、穏やかな気持ちでエールを喉に流し込んだ。大きな富や成功ではない。だが、ここには確かな生活と、仲間たちとの静かな繋がりがあった。


 借金の問題は、まだ解決していない。金貸しは時折、嫌がらせのように俺の小屋を訪ねてくる。だが、以前のような恐怖はなかった。俺は彼らに正直に事情を話し、クラーラやディルクにも間に入ってもらいながら、少しずつでも返済していく約束を取り付けた。完済までには何年かかるか分からない。だが、逃げずに現実と向き合う覚悟が、今の俺にはあった。


 その夜、俺は自分の小屋に戻り、ランプの灯りの下で、古びた日記帳を開いた。この一年間の出来事を思い返しながら、ゆっくりと言葉を綴る。かつて俺が熱狂的に信奉した「スローライフ」という言葉。それは、俺にとってどんな意味を持つのだろうか。


『スローライフ。それは、話師が語る美しい絵物語でもなければ、ビラに書かれた安っぽい詩でもない。ましてや、働かずに楽して儲けるための抜け道などでは、決してなかった。』

『それは、朝露に濡れた土の匂い。額を流れる汗のしょっぱさ。泥にまみれた自分の手のひら。隣人の不器用な優しさ。そして、労働の後に分かち合う、温かい食事と、ささやかな笑顔。』

『苦労も、不安も、きっとなくならないだろう。それでも、自分の足で立ち、自分の手で糧を得て、明日へと繋いでいく。雨の日も、風の日も、泥に塗れて、それでも笑って。』

『遠回りをして、すべてを失いかけたけれど、ようやく見つけた気がする。ここが、俺の居場所だ。俺だけの、泥臭いスローライフだ。』


 ペンを置き、俺は窓の外を見た。春の夜空には、穏やかな月が浮かび、その光が、静かに流れる運河の水面を優しく照らしていた。風車が、遠くでゆっくりと回る音が聞こえる。それは、かつて夢見た楽園の風景とは違うかもしれない。だが、今の俺にとっては、これ以上ないほど、心安らぐ風景だった。


 明日も、日は昇り、俺は畑に出るだろう。泥に塗れて、汗を流して。それでいい。それがいい。俺は、静かな満足感を胸に、ランプの灯りを吹き消した。


 余裕ができたら、昔世話になった親方にも恩返しをしておきたいな。

(終)


最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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