第1話 待ってろ! 俺の「楽園」よ
ゴォン!
腹の底に響くような鈍い音。また親方が古い船底に金槌を叩きつけている。その音に重なるように、甲高い怒声が飛んだ。
「マレイン! てめえ、どこ見てやがる! 釘が曲がってるじゃねえか! この穀潰しが!」
またか。俺は心の中で大きくため息をついた。親方の怒鳴り声は、このアムステルダ“ス”の薄汚れた船大工工房では、カモメの鳴き声と同じくらいありふれたBGMだ。汗と、古木の湿った匂いと、コールタールの刺激臭が混じり合った淀んだ空気。その中で俺は来る日も来る日も、親方の怒声を聞きながら、錆びた釘を打っては、腐りかけた板を剥がす作業に明け暮れていた。これが俺の人生なのか? 運河を行き交う、あの風を切って進む壮麗な東イン“コ”会社の商船を横目で見ながら、俺が修理しているのは、いつ沈んでもおかしくないような老いぼれの運搬船ばかり。そして手にする給金は、安酒場で数杯飲めば消えてしまう程度。二十六にもなって、俺は何をやっているんだろう。こんな生活、いつまで続ければいいんだ?
この世界に流れついてはや三年。神様の気まぐれか(この世界に来たこと自体も神様の気まぐれだと思う)、親方に運良く拾われた。マレインという名前も親方にもらったものだ。ここで働くようになったが、これでは前世と同じで過労死してしまうかもしれない。早く何とかして、長生きできるようにしたい、と心から強く思う。この世界に突然来てからしばらくは親方の元で暮らしたが、最近独り立ちを果たしたのだから。
昼休憩の合図とともに、親方の怒声が止んだ。俺は工房の隅にある埃っぽい木箱に腰を下ろし、懐から固く黒ずんだパンを取り出した。今日の昼飯もこれだけだ。水筒の生ぬるい水を流し込みながら、俺はもう一つの宝物――こっそり拾ってきた安っぽいビラを広げた。インクが滲み、紙質も悪いが、そこに書かれた言葉は、俺にとってどんな説教よりも価値があった。
『都会の喧騒、終わりのない労働……もううんざりではありませんか?』
『ローウェンの豊かな田舎へようこそ! わずかな元手で、あなただけの自由な時間を手に入れましょう!』
『想像してください……朝は鳥の声で目覚め、昼は運河のほとりで釣竿を垂れ、午後は風車の下で心地よい昼寝…夜は満天の星空の下、静寂に包まれる……』
『夢ではありません! 今すぐ行動すれば、誰にでも手に入る理想の暮らし、それが「スローライフ」です!』
「スローライフ」……ああ、なんて甘美な響きだろう。この言葉を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、強い憧れが湧き上がってくる。そうだ、俺が求めているのはこれなんだ。こんな騒々しくて薄汚い場所で、歯車のように働き続ける人生じゃない。もっと穏やかで、自由で、人間らしい暮らし。ビラにはご丁寧に「驚くほど簡単な!スローライフ実現のための節約術5箇条」なんてものまで載っている。
「1.食事は質素に、2.衣服は繕って、3.無駄な娯楽は断つ」……なるほど、これを守ればいいのか。簡単じゃないか。この程度の我慢で、あのビラに描かれた夢のような生活が手に入るなら、安いものだ。
「おい、マレイン。またその怪しげな紙切れを読んでるのか? 船乗りの与太話よりひでえぞ、それ」
隣で同じようにパンをかじっていた同僚のヤンが、口の周りにパン屑をつけながら呆れたように言った。ヤンは俺より少し年上で、もうこの工房に十年近くいるらしい。すっかりここの空気に染まっている。
「怪しくなんかないさ。これは現実的な計画だ。少し我慢して金を貯めれば、誰だって田舎で自由に暮らせるんだ。お前だって、親方の怒鳴り声はもう聞き飽きただろ?」
俺は少しムキになって言い返した。
「そりゃあ聞き飽きたさ。だがな、田舎で暮らすって言ったって、結局は畑仕事かなんかで汗水流すんだろ? ここで汗流すのと、どっちがマシかね」
ヤンは肩をすくめ、やれやれといった表情で首を振った。
「分かってないな、ヤン。スローライフは違うんだ。ビラにも書いてある。『最小限の労働で、最大限の余暇を』ってな。ほとんど働かなくても、自然が恵みを与えてくれるんだよ」
「へえ、そりゃあ結構なこった。まあ、せいぜい頑張るんだな」
ヤンはそう言うと、残りのパンを口に放り込み、仕事に戻る準備を始めた。こいつらには、どうせ分かりっこないんだ。現状に不満を言いながらも、そこから抜け出す勇気も知恵もない連中だ。俺は違う。俺は自分の人生を変える。このビラは、そのための確かな道標なんだ。
その日の仕事が終わり、汗と木屑にまみれた体を重々しく引きずって、俺は家路とは逆方向、少し活気のある広場近くの酒場へと足を向けた。いつもの安酒場ではない。なけなしの銅貨をはたいてでも、聞きたい話があったからだ。そこには、今、若者たちの間で話題沸騰中の話師ワシ、バルテがいるという。
酒場の扉を開けると、むっとするような熱気と酒の匂い、そして人々のざわめきが俺を包んだ。店の奥、少し高くなった場所に、派手な色のチョッキを着た小柄な男が立っていた。あれがバルテか。彼の周りには、目を輝かせた若者たちが何重にも輪を作って、その言葉に聞き入っていた。俺も人垣をかき分け、できるだけ前へと進んだ。
「…そうだ、諸君! 都会の歯車になるのはもう終わりだ! 君たちを縛り付ける鎖を断ち切り、自由な空気を吸う時が来たのだ!」
バルテは抑揚をつけ、身振り手振りを交えながら、まるで舞台役者のように語っていた。
「想像してみろ! ローウェンの美しい田舎を! 朝、窓を開ければ、運河のきらめきと鳥の歌声が君を迎える! 昼は、そよ風に吹かれながらハンモックに揺られ、詩集でも読むがいい! 面倒な仕事などない! 畑には勝手に作物が実り、川には魚が泳いでいる! わずかな労働、いや、ほとんど働かなくても、自然という名の母親が、君たちを豊かに養ってくれるのだ! それこそが、真のスローライフ! 人間本来の生き方だ!」
ほとんど、働かなくてもいい……! 自然が養ってくれる……! 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。バルテの言葉は、まるで渇いた砂地に染み込む水のように、俺の心に深く、強く響いた。そうだ、これこそ俺が求めていたものだ! 節約なんて、この輝かしい未来へのほんの入り口に過ぎない。この程度の苦労、あの楽園での自由な生活を思えば、むしろ喜びにすら感じられる。
「金がない? 心配するな! あの豊かな土地は、驚くほど安い値段で手に入る! 少しの節約、少しの我慢で、君たちは永遠の自由を手に入れられるのだ! さあ、決断する時は今だ!」
バルテがそう叫ぶと、周りの若者たちから「そうだ!」「俺も行くぞ!」という熱狂的な声が上がった。俺もその興奮の渦に巻き込まれ、拳を強く握りしめた。もう迷いはない。俺はスローライフを手に入れる。絶対にだ。
その日から、俺の節約生活はさらに徹底された。昼飯はパン半分と水。夕飯は一番安い塩漬けニシンを少しだけかじるか、それもなければジャガイモをふかして塩で食べるだけ。衣服は擦り切れて穴が開いても、自分で針を取り、不格好な継ぎ接ぎを当てた。以前はたまに行っていた安酒場も完全に断ち、同僚に誘われても「俺にはやるべきことがある」と断固として断った。
「おいおい、マレイン、お前、本気で言ってるのか? 顔色悪いぞ」
「まるで幽霊みたいだぜ。そんなんじゃ、田舎に行く前に倒れちまうぞ」
ヤンや他の同僚たちは、本気で心配してくれているようだったが、俺には彼らの言葉が、夢を諦めた負け犬の戯言にしか聞こえなかった。
「心配無用だ。俺は目標に向かって進んでいるだけだ。お前たちには分からないだろうな、この先にどんな素晴らしい生活が待っているか」
俺は心の中で彼らを憐れみながら、そのようにぼやいた。空腹で目が眩むこともあったし、夜中に胃の痛みで目が覚めることもあった。だが、その度に俺はビラの言葉とバルテの語りを思い出し、「これは試練だ」「楽園は近い」と自分に言い聞かせた。
工房での親方の怒鳴り声も、ほとんど右から左へ聞き流せるようになっていた。どうせ、もうすぐこの忌々しい場所とはおさらばなのだ。金槌を振るう機械的なリズムの中で、俺の心はいつも、まだ見ぬローウェンの田舎を自由に飛び回っていた。運河のほとりで昼寝をする俺。花の咲き乱れる庭で詩を読む俺。ああ、想像するだけで胸が高鳴る。
唯一の具体的な楽しみは、寝る前に安物の陶器の壺に貯めた金を確認することだった。毎日のように厳しい節約を重ね、少しずつ、しかし確実に銅貨や、たまに手に入る銀貨が壺を満たしていく。目標額は、村に小さな土地付きの小屋が買えるだけの、ささやかな金額。バルテもビラも、「驚くほど安い」と請け合っていたから、きっとすぐに貯まるはずだ。俺は毎晩、その壺の重みを確かめ、ニヤニヤしながら眠りについた。
そして、何か月が経っただろうか。冬が終わり、運河の氷も解け、アムステルダスにもようやく生ぬるい春の風が吹き始めた頃、ついにその日がやってきた。壺の中身が、目標としていた金額に達したのだ。ずっしりと重い壺を抱えた瞬間、俺は震えるほどの達成感と興奮に包まれた。やった! やったぞ! 俺はついに、自由への切符を手に入れたんだ!
翌朝、俺は誰にも何も告げず、夜明け前に安アパートを抜け出した。工房へ向かういつもの道を逆方向に歩き、アムステルダスの中央駅へと急いだ。後ろで親方が何か叫んでいたような気もしたが、もう関係ない。振り返る必要など、どこにもなかった。
北へ向かう乗り合い馬車の硬い座席に揺られながら、俺は窓の外を流れていく景色を食い入るように見つめていた。ゴミゴミした灰色の建物が途切れ、風車が点在する緑の牧草地が広がっていく。ああ、これだ。これが俺の新しい世界の始まりなんだ。
「待ってろよ、俺の楽園! ここを出れば、本当の人生が始まるんだ!」