1 呉天
神聖王国は沿岸に巨大な都市を設け、港を構えている。東方の海から来航する船舶たちは、水平線より現れた石の要塞を前に、一度船着場を見失う。その日は快晴の空が広がっていたが、高くそびえる絶壁の要塞は近海に暗い影を落としていた。
王国は法外地区を除いて四の州と五の島から構成される、西大陸の半分を占有する巨大な法治国家である。中央に王都を構え、東の沿岸にて、北南を縦断する外交と検問の為に造られた要塞『港』によって守りを固めている。
東方には『抱呪の海』を跨ぎ、東大陸のすべてを掌握する大帝国『灯台郷』がある。双方は二〇〇年前より続く同盟により、帝国が王国の為政に干渉するかたちで結ばれていた。だが二国の間を隔てる大洋はその名の通り『呪い』を抱いており、入れば沈没は免れない。大きく迂回せねば行き来することが不可能である。その為、貿易船、旅客船はいずれも王国と帝国の法治下にある島々を経由し、約四日という長い航海ののち、相手国に辿り着くことができる。
__千人程度を乗せた王国製の旅客船が、最後の経由地を経て、ようやく最後の目的地である
『港』要塞に到着しようとしていた。
船の進行方向にある甲板に集まった旅客者たちは、神聖王国という名に反するが如く屹立する暗い要塞を見上げ、口々に噂話を漏らす。旅人は裕福らしい身なりの者もいれば些末な服装を纏う者もいる。なかには甲板の隅で身をひそめるように座り込んでいる者も少なくなかった。
「…あれが、『聖者の楽園』?」
「最近は帝国も王国もなんだか暗くていやだな…。ねえ、聞いた?」
「ああ、…邪の者が王国の流入したって噂?」
「そうそう。ほんと、勘弁してほしいよ。邪の取り締まりがあると、こっちまで面倒被るんだからさあ」
噂を流す者は、帝国のものである上等な絹の着物を身に着けている。
「この船にも穢れがあちこちにいてさあ。船を分けてほしいわよ、本当」
ねえ、と同意したもう一人の聖者は、甲板の端に立つ小汚い服装をした旅の者を一瞥し、口と鼻を覆った。
「…でも邪の者は、王国に長く滞在できない。それだけでも助かるわ」
ねー、と聖者ふたりが頷き合った。その二人に見咎められていた当の旅人は、ただ要塞を見上げている。…唇を真一文字に閉ざし、外套の盖子を目深に被りなおした。そのすぐ隣にも同じような見目をした、頭一つ分背の低い者が立っており、その者は逆に今まで船が通ってきた水平線を見つめていた。
今度は別の場所で、噂話が聞こえてくる。
「ちょうど出航の日だったっけ。あの『抱呪の海』に船が一隻入ったらしい」
「はあ? 嘘だろう。沈没したってことか?」
「いや、それが…。帝国の船だそうなんだが、普通に戻ってきたらしい」
「いやいや…そんなわけないだろ。どこからの情報だよ?」
「筋は確かなんだ。だって帝国軍が、船が港に戻ってくるのを迎えているのを見たって、貴族聖者の奴らがみんな騒いでたんだ」
薄汚れた袍姿の商人二人は腕を組み身を寄せて話し込んでいる。彼らは傍らに大きな木箱の荷物を積み、くたびれた様子だ。小奇麗な姿格好をした『貴族聖者』とは距離を置いている。
ひとりの旅人は、遠い水平線を見つめたまま、その向こうにある海の名を呟いた。
「…ほうじゅの……海」
それはうら若い女の声だった。
隣に立つ背の高い方の旅人は、それに反応はせずに囁いた。
「これより王国の港要塞に入ります。見聞によりますと、入国前審査の段階数が増え、検問が厳重になったそうですので、くれぐれも発言にはお気を付けを」
体格が逞しく威圧感を覚える見目の旅人は、男のようである。盖子の影から垣間見える瞳は不思議な蒼と紅の色合いを持っていた。
その男に女は頷きかける。
「…わかった」
「まもなく港に到着します! お手荷物のご確認を__」
女が言い終えるやいなや、甲板の中央から乗員が到着を報せた。要塞を見上げていた乗客たちは散り散りに、それぞれの荷物を纏め始める。要塞から海面へせり出した停泊場がすでに現れている。
「…行きましょう」
女はふたたび首肯し、歩みだした方向に静かについていく。誰もが二人を気に留めない。どこから見てもありふれた旅人の形をしているからだ。旅に疲れた者の多くは盖子を被っている。石の壁が頭上を覆い、陰った甲板を歩く二人の旅人は、甲板下へ伸びる階段の側に人が寄り集まる、その最後尾についた。男の旅人は外套の下に背負った麻袋から二人分の旅券を取り出す。一つは金属製のもの、もう一つは古びた木材を切り出した廃材のようにもみえる。周囲の客人は金属製のそれを持った者が多い。男は金属製の旅券をもうひとりに手渡した。
船が大きく一度横に揺れた。波が船に打ち寄せる音とともに、到着の証である笛が高々と鳴り響く。帝国より四日、最後の経由地より一日経過した朝、船は神聖王国の港に到着した。
**
「神聖王国は穢れを許さない。『邪』…おまえにその意味は分かるな」
船を降りてすぐ通される分厚い絶壁の中に設えられた検問室では、入って正面にある鉄格子の小窓の中にいる警官から検問を受ける。木製の旅券を持つ入国者は例外なくこの小部屋に通され、同じ質問を繰り返された。「意味」の分からない者はいない。みな同意し、暗い覚悟を抱いて小部屋を出る。木製の旅券の代わりに、首から提げる許可証を持たされて。
「…出国までこの許可証を外してはならない。聖者との接触を極力控える事。許可されない場所には立ち入らぬこと。特に王都には入ってはならない」
早口ですべての禁則事項を並べ挙げた警官は、小さい小窓から見える手で払うようなしぐさをした。
「これらを破れば即刻追放だ。殺さずにおいてやることを陛下に感謝するように」
検問を終えた男の旅人は、はずせと命じられて首に巻いていた包帯布を巻き取った。現れた首筋には紅い紋様が刻まれている。帝国と王国は共通して、邪の者には邪の証を印される。邪神の象徴、黒龍の印だ。それを一瞥し、無表情に頷いた警官は彼を外に促す。男は包帯を巻きなおし、検問所を出た。分厚い城壁に似た要塞を抜けると、そこは朝日に照らされた活気あふれる港町だった。
彼が行く先には女の旅人が待っている。彼女は男に気付くと歩み寄り、自身がかぶっていた布を剥いだ。朝から強い日差しが照り付け、港町の気温は船上よりも高かった。彼女の肌は汚れのない清廉な白であり、旅人らしからぬ高貴な顔立ちである。通り過ぎていく者たちは一度彼女の姿に目を留めた。
「お待たせ致しました」
そんな女に、男は背筋を伸ばしたまま礼する。彼は布を取らないままであった。
「いや、そこまでは待っていない…ここでは顔は隠さなくて良いか」
さしてそれを気に留める様子もなく、女は真顔で問うた。
「構いません。ですがこの街を出るまでは名乗り挙げぬよう」
首から古紙の札を下げる男は、静かに、ただ低く忠告した。女は静かに頷いた。
「…進もう。王都を通らない道で西方の共和国へ」
男は声を発さずただ顎を引いた。
港は旅人や行商人の噂話が絶えない。
二人は飛び交う会話の中を無言で進んでいく。
要塞の向こうは、物々しい壁に守られた豊かな市場だった。二階以上の建物が立ち並ぶ軒先には布の天蓋が張られ、商人たちが店を開けている。碁盤の目状に家々が連なり、王都方面に行くにつれ緩やかに標高が高くなっているらしく、街の深部に向かう石畳の道はどこも登りの坂道だった。馬車を引くもの、猫車を押すもの、大きな籠や木箱を背負うもの。いずれも暑い日差しの下、汗を光らせている。しかし、住民たちは豊かな生活を送っているらしく、家屋や服装は整っており、子供が駆け回り、大人たちも笑顔がはじけていた。
「やあやあ、今日もたくさんの客人が来たねえ」
「ほんとほんと。また帝都から新しい品物が来るよ」
店を開ける準備にいそしむ王国民の夫婦が、ふたりとも長い髪を束ね、揃いの羽織姿で笑い合う。
「おはようさん、今日は暑いねえ」
「おはようございます! 氷嚢、使います?」
「いやあいいよ。お前さんが使いな。おれはこれから海だからよ」
「海仕事ですか! お気をつけてー!」
その前を駆け足で通っていくのは若い男とその師とみられる中年の男だ。いずれもやはり、肩につく髪を固く結ってまとめている。
「…いやあ。やっぱり王国はいい」
「ああ。さすが『聖者の楽園』といったところだ…。二百年前の『カンナビの異変』を被っても、穢れの気配がほとんどないなんて、いまの帝都じゃあそんなわけにもいかんからな」
「ああ…。あのお二人がああなってしまわれて、血生臭い政策が出来てから、どっちが聖か邪かも分からなくなってるからな」
「おい、気持ちは分かるがあまりでかい声でその話はやめたほうがいいぞ…」
初老の旅人三人がひそひそと会話をしている横を、無言の男女二人組が通り抜けていく。女の方が、通り過ぎたのちに踵を返した。『帝都』、たしかにあの一人が言った一言を彼女は反芻する。
「……噂話にはあまり耳を傾けぬよう。帝国の事なら尚更です」
それを咎めたのはもう一方の男だった。女はまた無言でこくりとうなずき、また振り返って旅の供を追いかけた。
「…おいあれ、見たか?」
「見たよ。穢れだ」
「やっぱり増えたか…? 帝国からの邪…」
「いずれにしても、気分悪くなるな。王国はもっとこう、取り締まってくれんかね」
旅人たちの話は熱を帯びてくる。
「いやあ、よくやってくれてる方じゃないか? 王都には入れないし、宿泊できない。出国するにはあそこに入るしかないんだ」
「そうだよな…二百年前からの決まり事だ。あの山に入ったら、終わりなんだ」
「ああ。とにかく王国も穢れの排除に余念がないってこった」
「ありがたいねえ」
旅人は忍び笑いしつつ、今や遠くへと去っていった、札を首から提げた男を横目に見やる。
「なんだってそこまでしてここまで来るかねえ…」
***
…今のところ、すべてが順調に進んでいる。
__呉天の蒼と、祖国の銅…
東方の暁と、西方の晦
記憶の中の歌声は、いつも妙音とは言い難く、それでもこの碧虚を仰げば必ず、優しく耳の中で鳴り響いてくる。
いずれの日か、交わらん…_
…何もかもが消えるまで。