10.喜瀬屋
実李の愛車はである、ミルクティカラーのジムニーを走らせている。
実李の実家は約10分ほど車を走らせたところにある
『喜瀬屋』
総客室数13部屋の民宿だ。
旧館に全8室の宿泊棟、約5年前、実李の父親の代で全5棟の新館を構えたのだった。
歴史は、リゾート・イン・ブルーよりも深く、今年で創業102年の老舗である。
老舗であるとは言え、新館建設時の借り入れはまだ少なからず残っているし、この島にはホテルの新規参入も増えてきて、経営状態は決して豊かではなく、なんとか、やっていけていると言える。
本日は、全室満室(もっとも、ヴィラとやらの正確な入り具合は不明であるが)のリゾートインブルーに比べると、13室中5室の入り具合である。
夕食の提供はないものの、お客様からの問い合わせとチェックイン対応のため、この時間は父親はずっとフロントでずっと事務仕事をしているし、母親は、朝食のための買い出しに行っている。
ただいまーと挨拶もそこそこに、フロントに座っているデスクワーク中の父親の黄瀬広吉に、尋ねてみた。
「ねえ、父さん、リゾートインブルーって、あの建物以外に一棟貸しみたいなのがあるって知ってた?」
広吉は何だーいきなりーと言いつつ、嬉しそうに答えてくれた。娘と喋ることは基本的に好きな父親なのである。
「十数年前あのホテルの改装説明会で聞いたなあ。なんでも、海沿いの土地の方に、120平米くらいの大きさで、プライベートプールが各建物についてるとかで、あのホテルの上級会員様しか予約できないらしいぞ。全部で3件だったか?中には、ほれ、あの有名な歌手が好きだっていう、透明のグランドピアノが入ってる建物もあるらしいぞ。」
グランドピアノ・・・
この島国には似つかわしくない、グランドピアノ。
リゾートインブルーのロビーには、何故か超高級アンティークピアノがあり、時々、ピアニストが来ては演奏会が催されている。
それが名物のホテルでもあった。実李も、小さい時に、外国の偉いピアノの先生とか言う方の演奏会をここで聞いたことがあった。
「あのホテルって、なんでそんなにピアノが置いてあるの?」
「先代の社長の時から、なんでもプロの音楽家?と一緒に経営をしているって聞いたことがあるな。演奏会、一緒に行ったことあるだろ。」
「あの外国人の?」
「いや、日本人だったはずだが。」
互いの記憶の相違があれども、リゾート・イン・ブルーは、音楽家が共同経営をしている宿であるらしかった。
「お前、黒崎のお嬢、いや、支配人に直接聞けばいいじゃないか。」
・・・黒崎の、お嬢? 実李はその、父の言うお嬢という言い方にとてつもない曰くを認め、思わず聞いてしまった。
「え?お嬢?お嬢って何?」
「それも知らんかったのか?あの支配人の雪乃さんは、あのホテルの創業者の孫、今の社長の娘だぞ。あ、今の社長はさらにその息子だから、社長の妹だ。この辺の奴らは皆黒崎のお嬢って呼んでるよ。あとあのホテル、前はもっと違う名前だったんだが、今のなんだっけか?5,6年前くらいからリゾートなんたら、になったんだよ。だからピアノホテルのお嬢とか。」
なるほどそう言うわけか、と実李は妙に納得が行った。
おそらく、実李自身とそう変わらないであろう年齢にも関わらず、あの達観した雰囲気、度量の大きさ。黒崎支配人は経営者一族だったのだ。
しかしながら、お嬢様がゴキブリ退治をしていたと思うと、おかしく思えてくる。
そのお嬢様という言葉と、あの黒崎支配人という人は、なかなか結び付かずにいた。
だまだ、あのホテルについては、知らないことが多い。