8. 全ては同じ処理
実李自身も、おにぎりを食べ終わった。
そろそろ良いか…と思いつつきいてみた。
「そう言えば、例のゲロ布団どうなりましたか?」
言い終えてから、うえっと、美味しく食べたはずのおにぎりが戻りかけたので、この言動を少し後悔した。
その矢先に黒崎支配人はこのように淡々と返答してきた。
「ああ、私としては、クリーニング代金の請求なしで布団交換対応しますよーと言う気持ちで伺ったのですが、お客様曰く、ゲロは生理現象だから仕方がなく、ゲロの申し出をしてから数時間、対応をしてくれなくて、部屋が使えなかったから、その分返金して欲しいとおっしゃてたのですよ。」
実李は一瞬その客の言動が理解できずに固まった。そして、だんだん頭が追いついていくうちに、その理不尽な返答に唖然とした。
普通なら、布団を汚してしまって申し訳ありません、と言われてもよさそうなとことを、さらには宿泊代金の返金まで要求したと言うことか。
その図太い神経に、失望にも似たショックを受けた。
「どう考えても、布団をダメにした方が悪くないですか?」
当たり前の理屈に思えるのに、何故こんなことを聞いているのだろう、自分でも訳がわからなかった。
「お客様からすれば、連絡を受けたらすぐ対応して欲しかったようです。確かに私たちも別件対応がありましたからね、お気持ちは分かるのですが。」
「そんな・・・私たちだって常にお客のゲロを想定して動ける訳じゃないのに。」
私たちスタッフも神ではない。最善を尽くしても全ての客に対する要望を100パーセントを受けきれるわけではない。
ただし、今回のケースの様に、こちらにも少々は感じる、責任感との気後れのようなものに、上手くつけ入ろうとする、所謂最近はやりの言葉で言えばカスハラをしてくるお客の常習手段で、よくあることなのだと言う。
黒崎支配人は、まるで面白い話をしているように続けた。
「まあ、お客様にとってみれば、お金を支払って滞在されている訳で、ここが人間の運営するリゾートホテルだとかは関係が無いのですよね。なので私は、お客様のクレームを怖がらず、憎まず、只々、穏便に納得していただけるように、穏やかな精神で望めば良いのです。所謂モンスタークレーマーと呼ばれる方は、そう言う気持ちで人間に対峙されたことがないらしく、いざとなると対応に困ってしまうのですよ。そして逆に戸惑う隙ができるのです。その間に一気に、処理してしまえばいいのです。」
・・・そんなものか。と実李が感心していると更に黒崎支配人はこう答えた。
「なんだかんだで、もちろん返金はなし、お話をしているうちに、明日BBQの高いプランを頼んでくれることになりましたよ。この後買い物に行かなければなりません。」
とまたにっこり笑た。
最上級のエビ仕入れられるかなあ、などとブツブツ言っている黒崎支配人に、実李はまた小さく驚いた。
ピンチをチャンスに変えるとはまさにこのこと、クレーム対応次第では、予約サイトの口コミにズタボロに書かれてしまうこともあるこれが今後の売り上げに大層響いてしまう。
それを上手く回避し、なんと一番高いBBQコースのオーダーまで取り付けてきたのだった。
やはり、この支配人、恐るべし、と改めてこの支配人の抜け目のなさに感心したところで、この、黒崎支配人のクレーマーに対する心構えについて、ある違和感を覚えた。
「あれ、今のセリフ、本日2回目じゃないですか?どこでそんな話をしていたのでしたっけ?・・・業務中にそんな話を・・・」
と実李は黒崎支配人をみやった。
彼女は、じっと真顔で遠くを見つめていた。
気がつくと、BGMのクラシック音楽は聞こえなくなっていた。
「掃除機の中のゴキブリさん、処理し忘れていました。あとで浅野さんに怒られてしまいます。BGMも変えてきて、ゲロ布団もあれはもう捨てなければ。それでは、私は業務に戻ります。黄崎さんは、休憩終わりましたら、上がっちゃってくださいね。」
と、すっくと立ち上がった。
「あ、あと黄崎さん、たとえどんな方でも、従業員だけの時も、お客様、と一応 ”様” をつけましょうね。いざという時にこういうのは、癖で出てきてしまうものですから。」
とにっこり付け加えられた。
「本日はお疲れ様でした。お気をつけてお帰りくださいませ。」
と、黒崎支配人は、軽く会釈をしつつ足早に、控室を出て行ってしまった。
実李のお疲れ様ですーを聞き取ったのかどうかは、不明である。
歩くのがとても早い人であることに気がついた。
実李は、しばしボーッとし、この黒崎支配人との会話を咀嚼した後
今後は浅野さんと舞花さんを見習うべきかもしれないなどと思い巡らせながら、ようやく退勤することにした。