7. 抜け目のない人
清掃係たちは本日全ての清掃が完了して、控え室に戻った。
浅野さんチェックにより、結局のところ、最終的に終わったと言える時間は、15:20であった。
その間、その部屋のお客様とバッティングすることは無かった。
控室に戻ったや否や、浅野さんと、舞花さんは、光の如く退勤していった。
浅野さんは、この後義理のお母さんを病院に連れて行くと言うし、舞花さは、小学生の息子さんを塾へ送って行くのだそうだ。
その切り替えの速さは、もはや職人を思わせるほど、見事なものであった。
実李自身はというと、疲労と脳みその混乱で、控室にある上等なソファーにごろんと、横たわりたい欲求に負けていたのだった。
少し、ほんの少しだけ、休んでから帰ろう。そう思って横たわったのは、もはや、フラグだったと、後々に振り返ってそう思う。
・・・遠くから、黄瀬さん、黄瀬さん。と声がする。
ハッと目が覚めた。目の前には、長い黒髪お一つに括り、ノンフレームメガネをかけ、化粧気のほとんど無い、色白で面長の女性の顔があった。黒崎支配人である。よくみれば、薄い唇の数センチしたにはほくろがある。
寝起きの頭で、ぼうっと、そう考えていた時、脳みそが急に現実に引き戻される感覚がした。
「今何時ですか!?!?」
黒崎支配人は、急な大声に、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに元のにっこりとした顔になり
「今は、17:00ですが、あなたの業務は全て終わっていますよ。それとも夢でお仕事をされていましたか?」とふふっと笑った。
「いえ・・・眠っちゃってすみません。」
「こちらこそ、本日は新人さんに無理をさせてしまったので、申し訳ありませんでした。」と言いながら、何かを運んできた。
「これ、厨房で作ってきました。しらすと天かすのおにぎりです。ポン酢を垂らすと、酸味がなんとも美味しいのですよ。まあ、賄いです。よろしければ召し上がってください。」
お腹がぐぅっと鳴っていた。相当お腹が空いていたことに気がついた。
「いただきます・・・」
そして、米は何故か白米ではなく玄米であった。
実李は、玄米にポン酢と言う謎の組み合わせに疑問を持ちつつも、そのおにぎりを手に取り、一口齧り付いた。
すると、天かすの油とポン酢の程よい酸味。そしてしらすの滋味が口に溶け込み、気疲れ、体力疲れの両方に犯された体に、染みわたっていった。
「おいしい!油と酸味が良いマリアージュになってて!玄米も香ばしくて美味しいですね!」
「マリアージュなんて良いこと言いますね。」
ふふっと笑って、黒崎支配人はこう続けた。
「美味しい、の正体は何かと言いますと、五味の全てがバランスよく配置されたものだとされていて、甘さ・酸っぱさ・辛さ・苦がさ・鹹さ、になるんですが、これを全て兼揃えたものが、まさにあの天かすポン酢おにぎりなのですよ。これに、旨味、五味にはありませんが、つまりしらすを足すとパーフェクトに美味しいおにぎりになるのです。また、玄米は電解物質が多く含まれているので、疲労回復、抗酸化作用があり、最強のスーパーフードなんですよ。」
いつものにっこりとした笑顔で、しかし急に饒舌に話し始めた。
本当ですか、それは…?と思う知識ではあるが、黒崎支配人自身も、美味しそうに食べているのをみて、何も言えなくなってしまった。
静かにおにぎりを食べていると、微かにロビーから流れてくるクラシック音楽が聞こえてくる。
この曲は聞いたことがある気がする。この曲は何という曲だろうか。
玄米の味を噛み締めながら、そのクラシック音楽の曲名よりも、気になっていたことを聞いてみた。
「201号室の清掃が終わったのは、15:20でした。もし、お客様がいらっしゃってたらどうなりましたか?私新人で至らないことも多くて、一人で最初から最後まで清掃するのも初めてでしたし・・・」
黒崎支配人は、急に神妙な顔になった。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。一応202号室のお客様からは、16:00ご到着の旨、ご連絡頂いていたのです。」
「それなら・・・」早く言ってくださいよ、と実李が言いかけたところで、藤崎支配人は続ける。
「ですが、ご宿泊のお客様は、極端にチェクイン時間から離れた時間をご指定でもしない限り、15:00にいらっしゃるケースが、実は多いのです。実際、201号室のお客様も、15:30にいらっしゃいました。清掃の皆様には申し訳ないのですが、私は17時までにいらっしゃるとお伝えいただいたお客様は、基本的に15時にチェックインされるものと考えています。そのように判断しているのは私ですので、もし清掃が終わらなかったとしても、それは黄瀬さんのせいではなく、支配人である私の責任なのです。」
先ほど、安易に、清掃が終わらなくても、支配人のせいだ、と考えてしまったが、黒崎支配人自身もそのように考えていたことに、少々面食らってしまった。
自分が旅行客になった場合、そのようなチェックインの仕方をしてしまうかしれない。
黒崎支配人の主張は尤もであった。
「ですが、ご申告のチェックイン時間より早くいらっしゃった場合。少々お待ちいただくことになっても、16時に来るって伝えてたものね、とご納得下さる方がほとんどです。お待ちいただく間、ロビーの方でいかにご満足いただけるか、これはフロントのお仕事ですから。」
とまた、黒崎支配人はまたにっこり笑い、おにぎりを口に運んだ。
「それに、あのお部屋は黄瀬さんならもう既に、すぐに清掃完了出来るくらいお仕事を覚えていらっしゃる、と分かっていましたよ。浅野さんも、舞花さんも、二人いれば301号室程度一瞬で終わるくらい、慣れていらっしゃいます。終わったら201号室の方に行ってください、とメモを残しましたし。」
と言ってから、おにぎりの最後の一口を口に放り込んだ。
実李は、しばし黒崎支配人という人について思慮した。
いつもにっこり飄々として、できない仕事もやると言いつつ、できていなかったり、デスクが汚かったり、人間として謎めいていて、行動が読めないことがある。
ただし、清掃スタッフの属性を見極め、自分は全体を見据え、人に任せるところは任せ、新人の私に、無理やり、ある意味独り立ちの機会を与えていたのだった。
フォローは的確に行う。そして最後は何かと全てうまく整えてくる、と言う不思議な仕事スタイルの人なのだ。
抜け目のない・・・黒崎支配人という人物が、少し分かったようで、わからなくなった。