3. 支配人 黒崎雪乃
廊下の奥から、身長170cmほどの、女性としては高身長なその人は、何か長い筒状のものを弄びつつ抱えており、黒いパンツスーツに身を包でいる。
とは言っても、ここは南国なので、クールビズと称してジャケットは羽織っていない。
白いシャツに、黒いベストを着用している。施しているフープタイには、ブルーのストーンがついている。
これにはリゾートインブルーのロゴである、イルテの花、と言う大河原島原産の花が描かれている。
色白で、やや面長な顔さらっとした黒髪を一つに括り、たなびかせ、着用しているノンフレームメガネがきらりと光る。
「203号室、ゴキブリ対応いたしました。この通り、掃除機で吸い取れば何も問題ありません。」
と、涼しげに語るこの人が、このリゾートインブルーの支配人黒崎雪乃である。
実李は、極めて驚いた。この、支配人、黒崎雪乃と言う人物は、東京出身で都会育ち、ここへは10年前にやってきたと聞いている。それを、掃除機で吸い取ると言う芸当をどの様にして行ったのだろう。
「あの、黒崎支配人・・・? 掃除機で吸い取ったって、どうやって?」
実李は、アウトイン2件とゲロ対応を一件控えていることを忘れ、思わず訪ねてしまった。
黒崎支配人はこの様に答えた。
「まあ、ゴキブリにとってみれば、太古からここに住んでいた訳で、ここが人間の運営するリゾートホテルとかは関係が無いのですよね。なので私は、ゴキブリを怖がらず、憎まず、只々、外に逃してやろうと、穏やかな精神で望めば良いのです。彼らはそう言う気持ちで人間に対峙されたことがないらしく、いざとなると対応に困ってしまうのですよ。そして逆に戸惑う隙ができるのです。その間に掃除機で吸い取ってしまうのです。」
実李は、想像を遥かに超えた回答に、一瞬支配人の顔を伺った、今ならゴキブリの気持ちがわかるかもしれない・・・とさえ思った。
「迂闊に殺虫剤を撒いてしまって、見失って、お客様に、ゴキブリがまた出るかもしれないから、部屋を変えて欲しいと、所望される方が困りますものね。」
と言って、にっこりとした笑顔を見せた。
実李はハッとした。事実この支配人の言うとおりなのである。
この場合、ゴキブリが逃げ込んだ場所を正確に特定できれば良いが、確実に逃げた場所を特定するのは、ほぼ不可能である。あとで死んでいるだろうなどと、迂闊に考えてはいけない。問題は、これがホテル内で起こっている事件であると言うことである。後から、ゴキブリが怖いから部屋を変えて欲しいだの、返金しろなどとクレームが入ってしまえば、ゴキブリが生きていようが、死んでいようが、最早関係がない。結局はホテル側が損害を被ることになるのだ。
実李の実家は、このリゾート・イン・ブルーほどではないが、近隣で小さな民宿をで営んでいる。
古き良き見た目が売りで、実際観光客には評判ではあるのだが、それだけに、ゴキブリはもちろん、蜘蛛、ムカデなども時々客室に表れる。
その被害にどれだけ頭を悩ませているかは、他の誰よりもわかっているつもりだ。お客様の目の前で、ゴキブリを殺すか、捕まえてしまうかが一番の解決方法である事は明白である。
理屈ではもちろんわかっているつもりだが、果たして、ゴキブリを目の前にして、そのような感情になる人間がいるのだろうか。