20. ホテル清掃係黄瀬実李は支配人への恩返しのためにフロント業務をする。
火事が起きてからの数週間は、黒崎支配人が言う通りで、生きた心地のしないくらいの慌ただしさ
であった。
火事証明を出す、保険会社とのやりとり、借入をしている銀行とのやりとり。
幸い、広吉は軽傷であり、予定より早退院ができた。
その間、黒崎支配人は手を差し伸べてくれた。
今後受入予定だったお客様の受け入れ、他のホテルへの斡旋
書類の書き方のアドバイス・・・なぜ黒崎支配人が詳しいのかはわからなかったが
両親に根気強く諸々のことを教えていたようだった。
東京で仕事をしていた弟もこの家事をきっかけに、喜瀬屋に戻ってくる段取りを組み始めてくれた。
ほぼ両親が対応していたとはいえ、あっという間に1日が過ぎ去っていく気がする。
「実李、お客さんだよ。」
父親の広吉が声をかけてきた。父親の容態が軽症であったことが、やはり何より一番良かったことであった。
実李はフロントの方へと歩く。
居住スペースは旧館の方であったのでほぼ無事であったが、煙の匂いはいつまでも染み付いているようで
その中で眠ると言うのは、本当のことを言えば少々嫌ではあったのだが
忙しすぎて、気がつけばそんなことも忘れていた。
フロントは、新館に近かったので、ガラスが割れてしまった。
しかし、こちらの修繕は思いの他早く済んだ。
なんとか旧館の方だけでも、この夏休みから営業再開をさせたい。
修繕が済んだフロントの方に立っていたのは、他でもない黒崎支配人であった。
いつもの、化粧気の無い顔色白の顔とノンフレームメガネ、ベストパンツスーツ姿を見て
この人の顔を久しぶりに見たような気がした。
「こんにちは、実李さん、2週間ぶりですね。」
そう言われて、火事の日から2週間が経ったことに気がついた。
「黒崎支配人、あの時は本当にありがとうございました。あの時から黒崎支配人が支えてくれたので、再会の目処も経ってきて、、」
黒崎支配人は、ハハハっとなんでも無いように話を遮った
「こちらのガラス割れちゃったんですものね、やはりあの時戻らなくて良かったですね。おかしも、小学校の教えは偉大ですよね。」
・・・そこ?と相変わらずツッコミどころが多い言動にフッと笑ってしまった。
黒崎支配人と話していると、火事が起こる前の状態に戻ったような気持ちになった。
それ以上は、黒崎支配人の続けてほしくなさそうな雰囲気を察し、その話は辞めることにした。
「これ、あの時の帰省のお土産、崎陽軒の焼売、実李さん用、今更ですが、良かったらお納めください。」
と、袋を渡してきた。有名な崎陽軒の焼売。チルドされた焼売のパックである。
ありがとうございます・・・と急なことに戸惑いながらもその袋を受け取る。
そういえばあの時黒崎支配人は東京に帰省していたのであった。
崎陽軒の焼売美味しいですよね、と黒崎支配人も、ダラダラこの話は続けようとする。
おそらくその話をしたいのでは無いと言うことは、実李にも察しがついた。
「あの!」
実李から切り出すことにした。
「あの、もう火事の一件、両親が対応しますし、私も稼がねばなりませんので、明日にでも職場復帰させていただけませんでしょか?」
黒崎支配人はそれを聞くと、安心したように、にっこり笑った。
「ああ、良かった。その話がしたかったのです。お忙しいかなとは思ったのですが、本当に良かったです。それでは、明日のチェックアウトの時間からお願いできませんか?」
「もちろんです!」
・・・・
また、沈黙が訪れてしまった。
黒崎支配人は、なかなか帰らない。まだ何か、話したいことがあるのだ、と実李は考えた。
そういえば、火事の日何か、気になることを言っていた。
「そういえば、火事の日言ってたと思うのですが、お願いってなんですか?私、黒崎支配人にはすごくお世話になってますので、できるだけ私もお役に立てればと思うのですが。」
と言って、実李は黒崎支配人の方を見やると
黒崎支配人は、かなりにっこりとしていた。が、あの時と同じ様に若干言いずらそうな顔もしていた。
「あ、覚えててくれて、ありがとうございます。それでは・・・」
******
と言う、流れで、実李は清掃係からフロント係に職種替えになったのである。
黒崎支配人の頼みとは、他ならぬ、実李にフロントの仕事をして欲しいと言うことであったらしい。
実際、接客業は、気が向かないとは言え、ここは黒崎支配人の頼みである。聞かざるを得ない。
「黒崎支配人、態と恩を売ってるとか、あるかな・・・」
と思うと、少々もやっとするところもあるのだが、事実問題として
火事の一件で得た恩は計り知れないので、それの見返りとしては、少ないとは思っていた。
本日からそのフロント業務が始まったのだ。今日はその初出勤であった。
諸々の業務の説明を受け、実李はフロントに立ち、黒崎支配人は控室にてPC作業を始めていた。
フロントの一番の仕事、例の、浅野さんも憐んでいた、お客様と24時間連絡が取れる地獄のケータイ。
これを託され、業務中は必ずこのチャットを気にしている様にとのことであった。
また、トラブルシューター一覧
これは、紙媒体ではなく、このケータイのデータとして入っているもので
お客様からのトラブルに対して、大体のことは、このマニュアル通り対応してくれれば良い
というものであるらしい。
暇な時に眺めてください、と言われていた。
思えば、無人化や機械化が盛んであるとはいえ、これを一人で回す黒崎支配人は相当プレッシャーを受けていると
やはり、黒崎支配人の負担が少しでも軽くなれば良いなと
純粋な気持ちでそう思った。
"ピコン"
例のケータイが鳴った。
チャットを見やると。
"友達が布団に吐いてしまいました。申し訳ないのですが、布団の交換はできますか?"
と、デジャヴでしかないシチュエーションのメッセージが、そこにあった。
バタンと、控室のドアが開いた音がした。
「お客様、何ですって?」
黒崎支配人が、キビキビとで出てきた。
「お客様からメッセージ来たってなんでわかったんですか?」
「なんでって、着信音が・・・」
黒崎支配人が逆に不思議そうに切り返すのである。
扉も閉まっていたはずなのに、この人は本当に・・・
「またゲロですか、仕方がない。ゲロは、この間、トラブルシューター一覧に載せてますからね。301号室ですね。今回は私が対応しますね、一応一緒に行きましょう。」
一瞬でメッセージを読み、そう言い終わらないうちに、歩き始めている黒崎支配人を駆け足で追うように実李はついていった。
この、リゾートインブルーのフロント係
黒崎支配人への恩を少しでも返せればという気持ちで始めた仕事であった。
第一章 ホテル清掃係黄瀬実李は支配人への恩返しのためにフロント業務をする。完結です。
に。




