12. 黄瀬実李はフロント業務をしたくない
民宿 喜瀬屋 の前に止まったタクシーから下車してきたのは、若い夫婦と、小さい子供1名だ。
フロントの父親を見やるなり
「我是预订这家酒店的人。」と、早口の外国語で捲し立ててきた。
「Good evening, may I have your reservation name?」
あわあわとしてしまった広吉を横目に、流暢な英語で対応するのは実李である。
「I' m Kim Ten son 」
「Welcome to our hotel. Please fill in checkin card.」
実李は、そのまま何事もなかったかのうように、チェックインの対応を始めた。
Kim Ten son 様、35歳男性、ご家族、ここへは1週間となかなかの長期滞在である。
一通りのチェックイン手続きが終わり、お客様は、バイと、手を振って客室棟へと消えていった。
「ありがとうー、センキュー。」とニコニコ、ヒヤヒヤと広吉はその中国人客を見送る。
和美は、女将の風格を漂わせ、ごゆっくりお過ごしください、と深くお辞儀をした。
そもそも、和美には相手が誰であろうと英語を話すと言う気はないらしい。
広吉はふうっと息をついて。
「いやー、最近インバウンド需要とかで、中国人のお客様も増えたなあ。実李を海外留学させておいてよかった。」
と、自らは今何もしていないが、一仕事をようやく終えた後の様に汗を拭った。
「実李、なんでリゾートインブルーさんのところで清掃係やってるの?フロントの方がお給料も良さそうだけども。」
と、和美が尋ねる。
・・・だって。と実李が広吉そっくりのバツの悪そうな顔をした。
「接客は苦手なんだよ。特にあそこはハイソっぽい人が多いから、怖いよ。クレームもここでは聞いたことないやつばっかりだし。」
喜瀬屋のお客様は、この古き良き佇まいを好いてくれる常連の方が多く、あまり理不尽な要求はされないことが多い。
「そんでも、せっかく英語話せるのに・・・あっちは外人さんのお客様も多そうだし、黒崎のお嬢も喜ぶだろうに。」
・・・・
実李は、高校卒業後は、大学へ進学せず、カナダへ留学をしたのだった。そこで英語を学び、というより生活するには必須であったため、今でも不自由なく英語を話すことができた。
とは言え、喜瀬屋のお客様ならともかく、さらに上のランクのホテルの接客ともなると話は別だ。
ハイソなお客様だから、ハイソなホテルの使い方をするわけではない。高額な値段を支払っているだけに、その期待値も高いものになるのだった。
実李は、それじゃ、お風呂入りたいからと、逃げるようにその場を去ったのだった。
・・・・私には無理だな。
と、実李は半ば諦めたような、聞く人が聞けば逃避とも言える感情で、この件にそっと蓋をしたのだった。
・・・そう思っていられるのも、実はさほど長い間ではないのである。
実李は、この後、成り行きからリゾートインブルーのフロント業務を任されることになるのだが、それはまた、別のお話である。




