9.弥生の誕生
「おはようございます。いってきます」
声とともに早苗の口から白い息が吐き出される。
亮弥が家を出る時間は、この季節ではまだ日の出前。東の空がうっすらとオレンジ色を纏いだしたばかりで、空の大半は夜の余韻を残す薄藍だった。陽の暖かさを得る前の乾いた空気は不快なほど冷たく、服外に出ている手や顔や耳たぶをチクチクと刺す。そんな時間帯の薄暗い駐車場のそばに、紺の長いダウンジャケットを前も留めずに羽織っただけの弥栄子が、身を縮めて立っていた。ちょっと顔を出しただけとでも言いたいのか、手袋やマフラーもつけていない。
「おはよう、いってらっしゃい」
猫なで声のそれは、早苗にとっては背筋がゾッとする気持ちの悪い声。
「おはようございます。いってきます」
亮弥は低い小声で言うと、さっさと後部座席に乗り込んだ。弥栄子の方を見たのは挨拶時に、一秒にも満たない時間だけだ。車に乗り込んでしまえば、さっさとPコートのポケットからスマホを取り出し画面に見入る。
「すみません。愛想がなくて」
「いいのよ。京弥もそうだったわ」
早苗も車に乗り込んだ。車を出発させる。駐車場を出た車は早朝の田舎道を駅へ向かって行った。
しかし、ご苦労様だなと思う。きっと早起きして敷地内別棟――早苗たちの家――の動きを見張っていたのだろう。
雨の日も風の日も、弥栄子は毎日欠かさず亮弥の見送りに出て来る。学校の行事によっては家を出るのがいつもよりも遅かったり、逆に早かったりする時がある。それでも弥栄子は駐車場に立っている。前以て亮弥の予定を弥栄子に教えているわけではない。それなのに必ず立っているのだ。
早苗が思うにあれはきっと、朝早くから起きてカーテンの隙間か何かから、早苗たちが住んでいる家の玄関が開くのを見張っているのだろう。弥栄子の家は早苗たちの家よりも駐車場に近い。それで早苗たちの家の玄関が開いたらすぐに弥栄子も玄関を飛び出して、早苗たちよりも先に駐車場に着いて、早苗と亮弥を待ち構えているのだ。
なぜそんなご苦労様なことをするのか。きっと亮弥が目の中に入れても痛くないほどかわいいからだと思う。できうる限りの長時間、視界に入れていたいのだと思う。でも思春期に入りかけた亮弥には、祖母など当然うっとうしいだけのもので。だから弥栄子は亮弥に会うために、早朝からあんな奇妙な行動をするのだ。
早苗はふともう一人の子供、長女の弥生を思い出す。弥栄子の弥生に対する扱いは、生まれてからずっと酷いものだった。そのせいか早苗たちがこの家に越してきてから、弥生は一度も姿を見せていない。
京弥と早苗の夫婦には、亮弥以外にもう一人子どもがいる。亮弥の姉、長女の弥生だ。早苗が弥生を生んだのは結婚した翌年。ハネムーンベビーではないが、結婚式後三カ月目の妊娠であった。
電話で早苗の妊娠を告げると、弥栄子は興奮した声で喜んだ。そしてこう言ったのだ。
『跡取りの男の子が生まれるのね』
その時は、そんなことはわからない。女の子かもしれない。とは言えなかった。
安定期に入り、医師から胎児の性別を教えてもらった。女の子だった。
『お袋には言わなくていい』
京弥にそう言われた。
『聞かれたらなんて答えるの?』
『医者から性別は聞いてないと言えばいい』
『男の子と信じて、服やおもちゃを送ってくるわよ、きっと』
『そんなことはないだろう』
京弥はそっけなく言って、この話を終了させた。
妊娠後期に入ると早苗が危惧した通り、山のように男児用品が送られてきた。
『どうするのよ! これ!』
早苗が京弥に文句を言うと。
『仕様がないだろう。別に女の子だってそれを使えばいいじゃないか』
と言って逃げた。
結局、隠しきれるものではない。生まれてしまえばばれるのだ。京弥と早苗の第一子は女の子が生まれた。弥栄子に電話でそう報告すると。
『え? 男の子じゃないの? そ~う』
『おめでとう』という言葉もなく、最後の『そ~う』の心底がっかりしたという声のトーンに、出産直後で疲弊していた早苗は酷く悲しくなった。そして弥栄子のその態度に腹も立った。でも言い返すことは京弥から禁止されている。早苗が、弥栄子に罵声を浴びせたい怒りとそれを止めるための理性の戦い中で何も言葉にできないでいると、その沈黙を破るように弥栄子から。
『若いうちにさっさと次の子作りなさい!』
いら立った声で返ってきた。その直後に、受話器をあてた耳の奥を地味に攻撃する、ブツリッという不快な音とともに電話は切れ、早苗は悔しさで受話器をギュッと握りしめた。
その後弥栄子は一度も、早苗と弥生がいる病院に現れなかった。
弥栄子が早苗に期待しているのは南雲家を継ぐ男の子。早苗にも弥生にも会いたくないのだ。弥栄子はその後も弥生にほとんど興味を示さなかった。
しかしそう弥栄子の思い通りにいくものではない。何年経っても弥栄子の希望は叶わず、弥生は一人っ子のままだった。
ゴールデンウィーク、お盆、年末年始。嫌でも京一郎と弥栄子に顔を見せねばならない。また運悪く弥生は早苗に瓜二つだった。早苗は特別美人ではないが、その美醜の遺伝はともかく、京弥や弥栄子の面影が全くない弥生の顔。それも弥栄子は気に入らない。
家族で食事をしてお酒が入って、酒に弱い弥栄子の愚痴が始まると、京一郎は書斎や職場に逃げ、京弥は悪いことをして叱られているかのように黙って下を向く。早苗たち三人は心無い言葉を浴びねばならない。一通り話が終わりると、弥栄子が半泣きで部屋からいなくなる。
幼稚園に通うようになった弥生は、話のあと、『お祖母ちゃんは私とママが嫌いなの?』と言って早苗の顔を見上げた。その時、早苗は何もフォローできなかった。最も何か言えるはずの、実の息子の京弥も何も言わない。
あまりにも弥生がかわいそうで帰宅してから京弥に文句を言うと、『仕方ないだろう。六十年以上あの価値観で生きているんだ。もう変えられるわけがない。お前たちの方が頭を使って、あれを常識だと思って賢く接するんだ』と早苗の苦情も弥生の戸惑いも相手にされなかった。
弥生は訪問ごとに繰り返される弥栄子の話が終わると、『お祖母ちゃんは私とママが嫌いなんだよね』と下を向いてぼそりと言うようになった。そしてその次には「お祖母ちゃんちに行きたくない」と言うようになり、弥栄子の味方にしか見えない態度の京弥に叱られた。そしてさらにその次には、弥生は「お祖母ちゃんなんて大嫌い」と頻繁に言うようになり、母親想いの京弥にもっと叱られた。
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