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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
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8.田村凛音

「春休みになったら、凛音りおんが大宮とか池袋とかで会おうって、言ってくれてるんだ」


 飯塚(いいづか)の家からの帰りの車の中で、早苗は亮弥(りょうや)がはっきりとした声でそう言うのを聞いた。亮弥は最近、早苗に対しては面倒そうにボソボソと話すので、こんなはっきりした声は珍しい。前を走るバイクのエンジン音が結構大きいので、大きめの声で話してくれたのかもしれない。それとも、反対されても譲りたくないという強い意思を示したかったのか。

 車が赤信号で止まった。前のバイクは交差点を黄色ギリギリで通過したため、先程より車内は静かだ。早苗は振り向いて後部座席に座る亮弥を確認する。亮弥は後部座席の助手席側に座り、じっとスマホを見ていた。早苗は前方を向く。信号はまだ赤だ。


「凛音君? 同じマンションだった?」

「うん」


 田村凛音(たむらりおん)。東京で同じマンションに住んでいた、亮弥と同い年の少年だ。

 そのマンションに早苗たちが住み始めたのは、弥生(やよい)が小五、亮弥が二歳の時だった。亮弥が大学生になるまでは東京に住み続けるつもりだったので、それまでの定住場所を決めようと分譲マンションを探していた。丁度その頃、弥生の小学校の学区が変わらずにすむ地域に気に入った物件が見つかったため、購入して引っ越した。

 住み始めて一カ月頃だろうか。マンション一階のエントランス部分での出来事だ。早苗がベビーバギーに乗せた亮弥と、マンションのエレベーターを降りてエントランスのドアの方へ向かっていると、逆にドアから中に入ろうしている、ベビーバギーを押す女性と出くわした。女性は三十歳位、ベビーバギーに乗っている子どもは亮弥と同じ年頃に見える男の子。


『こんにちは』


 女性は早苗たちとすれ違わずに早苗の数メートル前で立ち止まると、笑顔で早苗に話しかけてきた。アッシュブラウンに染め軽くウェーブをかけたセミロングの髪型が、小柄で優しそうな顔立ちの彼女によく似合う。かわいらしくてふんわりとした印象の女性だ。しかしTシャツ・ジーンズといったラフな服装が、小さな子どもの相手をしている母親らしさを感じさせた。


『こんにちは』


 早苗も返事をする。話してみれば彼女は帰宅するだけ、早苗は買い物に行こうと思っただけ。どちらも急ぎの用事がなく、立ち話をする時間があった。そうなれば女性同士、すぐにお互いの話が始まった。それが凛音とその母親との出会いだった。


 お互いに専業主婦で、同じマンションの違う階に住み、さらに同じ学年の同じ性別の子供。子供たちの生まれた日も丁度一カ月差。子供同士はすぐに友達になった。早苗は二つ年下の、凛音の母と気が合って、母親同士もすぐに仲良くなった。


 公園、図書館、児童館と、よく連れ立って遊びに行った。お互いの家もしょっちゅう行き来したし、幼稚園も見学後話し合って、凛音も亮弥と同じ、弥生が通っていた園に決めた。同じマンションなのだから、当然その後の小学校の学区も一緒。

 凛音の父親は多忙でさらに両祖父母は遠方に住んでいた。早苗の方も京弥は多忙で早苗の実家も遠方の上に京弥の母・弥栄子は気難しくて、子育ての協力を頼みづらかった。そういう環境でもあって、お互い遠慮なく協力し合えたし、女の子の子育てを一度経験している早苗を、凛音の母は頼りにしてくれた。早苗自身も男の子の子育ては初めてなので、凛音の母に相談する時もあった。


 子どもたちが幼稚園や学校に行っている間に有名店でランチを食べたり、お茶をして愚痴を言い合ったり、凛音の母と早苗は楽しい時間を過ごすようにもなった。


 小学生になると亮弥も凛音も中学受験を希望していたので、学習塾に通い出した。同じ学習塾で同じような成績で。『中学校も同じだったりして』などと言って、凛音の母と笑って話をしたのを思い出す。


 しかしそうはならなかった。亮弥は新幹線で通いやすい学校へ志望変更しなければならなくなり、二人は別々の学校に進んだ。


「会うのはいいけど、二人で何をするの?」

「ファストフード店とか。スポーツアトラクション施設とか。映画館とか。別に会えればどこでもいい」


 ルームミラーに映る、スマホを見る亮弥が、一瞬だけ上目遣いになり早苗を見た。ほんの一瞬だけ。亮弥はすぐに視線をスマホに戻している。


 亮弥は毎日東京へ行っているが、それは通学のためであって、凛音と会う時間はないだろう。亮弥はもうそろそろ凛音と会いたいのかもしれない。あれだけ仲がよかったし、小学生になってからは学校でも塾でもそれ以外の暇な時間でも、二人はいつも一緒にいたのだから。会うことさえできれば、特に何かをする計画などいらないのかもしれない。


「別にいいわよ。でもあまり遅くならないようにね。それから、繁華街の人通りのなさそうなところには行かないのよ。駅とかで声をかけてくる大人にも気をつけて」

「言われなくても、わかってるよ!」


 スマホを見たままの亮弥は怒ったような、不満なような声で返した。


 そういえばと早苗は思う。東京を離れてから一度も、凛音にも凛音の母にも会っていない。こうして毎日、病院やら送迎やら頼まれごとやらの決められた生活をしていると、東京に遊びに行こうなんて気は少しも起きなかった。東京に行ってやらねばならない用事も、亮弥の学校行事くらいしかない。用事がすめば他に何もせずに新幹線でとんぼ返り。都内のどこかへ寄り道しよう、楽しもう、などという余裕は一切持てなかった。


 久しぶりに凛音という名前を聞いて、早苗は凛音の母に会いたいなと思う。東京に来たら連絡ちょうだいねとか、メッセージアプリで連絡とろうねとか、引っ越しの挨拶時に約束したが、早苗は東京に行ってもすぐに家に帰ってしまう。凛音の母とのメッセージアプリでのやり取りも数カ月に一度あるかないか。

 会って、食事でもして、お茶でもして、凛音の母と沢山話したいと思う。お互いに家族や身内の愚痴を――。一年以上前、それは当たり前の時間だった。それが日常だった。でも今は違う。


 やっと信号が青に変わった。早苗は車を発進させた。



読んでくださってありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ちょっと前の、平穏な日常と。何もないようで穏やかだけど波の高い日常と。 亮弥くんの明るい声を、つい昔のことを考えてしまうほど、早苗さんの心に穏やかだった記憶が蘇る…。 うぅ、わかる〜。゜…
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