63.京一郎を訪問
「マリコさんが会いに来てくれた」
京一郎はそう言って優しげに笑った。数カ月前は見慣れた、でも今は久しぶりに見る、京一郎がマリコに笑いかける時の笑顔だ。
「はい、京ちゃんと約束しましたから」
「うん。マリコさん、約束、破るはずない」
京一郎は早苗をマリコと思っている。会話から判断するとそう思う。しかしそれではあのハンカチについていた手紙の宛名は。あの手紙の中で京一郎は、早苗をちゃんと『さなえ』と認識し呼びかけていた。だから何カ月も前からずっと早苗をマリコと呼んでいたのは、京一郎が何か目的があって、実際以上にボケて見えるようなふりをしていたのではと早苗は怪しんだのだ。しかしこの様子では、京一郎は早苗を息子の嫁として認識していない。
「ここの生活はいかがですか?」
「快適だよ」
窓の外に山は見えない。初めてこの部屋に入って窓からの風景を見た時に、早苗は『やはり』と落胆した。早苗は山が見える施設をと頼んだ時の京弥の返事からして、こうなると予想していた。弥栄子と京弥はきっと早苗のその頼みを、はなから無視して探したと早苗は思っている。
探そうと努力したのに、そういう施設が見つからなかったのなら仕方がない。しかし京一郎が好きな風景を、最初から施設探しの条件にさえ入れてもらえなかったのだ。そして京弥はともかく弥栄子なら、京一郎のマリコへの想いやあの暴力事件の腹いせに、あえて山が見えない施設を選んだ可能性だってある。
早苗は酷過ぎると感じていた。二人にとっては、夫だろうに、親だろうに。今まで病院に尽くしこれからは静かに暮らすだけの京一郎のために、一つくらい何かしてあげたいと思わないのだろうか。京一郎の気持ちになれないのだろうか。冷たい人たちだ。
ただ、施設の庭には木々が植えられている。窓から緑は見える。殺風景ではないのが救いか。空も少しだが見えた。
「京ちゃんは……」
早苗はあのハンカチについて聞きたかった。どんな思いであれを亮弥に頼んだのか。早苗は、亮弥は、京一郎にとってどんな位置にいるのか。
「私が足に巻いてあげた、ハンカチを覚えてますか?」
早苗はあくまでマリコとして尋ねる。
「うん。汚してしまったからマリコさんにお礼のハンカチをプレゼント……」
京一郎はそこで話を切った。そして顔は真正面を向いているが、瞳の焦点はぼんやりと、何もない空間に絞っているように見える。
「プレゼント……」
京一郎はもう一度そう呟く。
「亮弥ってわかりますか?」
慎重に、とにかく刺激しないように穏やかな声で尋ねる。
「亮弥? うーん……よくわからない」
早苗はベッドサイドにある写真立てを指差す。そこには亮弥と弥生の写真が入っている。そしてその隣には座布団にのったテルテル坊主と螺鈿細工の箱。
「あの写真の、男の子の孫ですよ」
「かわいい子たちだね。でもわからない。ごめんね」
真冬の頃は、亮弥を孫だと言った時にはすぐに誰だかわかってくれたのに、今はもう説明しても駄目なようだ。
「そうですか……そうですよね」
早苗はそれ以上の追及はやめた。
早苗はふと思う。ここに移動するまで、亮弥は頻繁に京一郎の病室を訪れていた。京一郎も亮弥を覚えていられた。でもここには亮弥は来ない。写真しかない。当時の京一郎は亮弥の姿を直接見ている時だけ、しっかりと祖父という立場に戻っていたのではないか。そして早苗をマリコとして扱ってしまっているのに気づき、申し訳ないと感じたのではないか。
あの日々のように、亮弥を頻繁にここに連れてくれば孫を思い出すだろうか。しかし近所にいた頃とは違い、長距離通学をしている亮弥に負担となるため、頻繁にここまで連れて来られない。孫を思い出すことに関してはこの場所は詰んでいる。
でも……京一郎は快適だと言っている。ならば偶にマリコがやって来る、このままでいいのかもしれない。
「今日はいい物を持ってきたんです」
早苗は話題を変える。京一郎は期待を膨らませたような目で早苗を見る。早苗がいい物と言ったので、興味津々なのだろう。
「これです」
早苗は持ってきたバッグから木製の、何十枚もの写真を入れられるアルバム型フォトフレームを取り出すと、一ページ目を開いて京一郎の左手に握らせた。
「これは……」
京一郎は写真立ての一ページ目に入れられた写真を凝視する。
「はい、三日前の浅間山の写真です」
早苗は近所の浅間山の見える場所まで移動して、その写真を撮った。それを現像して写真立てに入れたのだ。
「これから私が浅間山の写真を撮って、このアルバムに写真を増やしていきますね。春夏秋冬、色んな写真をここに入れていきます。だから楽しみに私の訪問を待っていてください」
京一郎は頷いた。嬉しそうになん度も頷いた。
「待っているよ、沢山持ってきてくれ」
次にここへ来るのはいつだろうか。そんなことを考えながら玄関に向かっていると、逆にドアを開けて施設に入ろうとする二人の人間が見えた。一人は杖をついた高齢男性でもう一人は高齢女性で、女性はその杖をついた男性を支えるようにして、二人寄り添って歩いて来ていた。
「ええ? おじさん?」
早苗はその二人に見覚えがあった。弥栄子の叔父の弥輔とその妻の康子だ。早苗は早歩きで二人に近づく。
「お久しぶりです、こんにちは」
早苗がそう話しかけると、足元を気にかけるように下を向いて、ゆっくりと歩いていた弥輔と康子は顔を上げ、早苗と目が合うと二人とも同時に目を見開いた。
「ええ? 早苗さん?」
そう声を発したのは弥輔であった。
「遠くからありがとうございます」
「京一郎君を弟のように思っていたから、どうしてるか気になってね。まさか彼が私よりも先に、こういう施設のお世話になるとは思わなかったよ」
面会を終えた弥輔夫婦と施設入口で待ち合わせをした早苗は、弥輔夫婦と共に近くのファミレスへとやって来た。そして席に着いて礼を言うと、正面に座った弥輔からそう返された。
「おじさんとお義父さんは年が近いですから、こういうこともありますよ」
弥輔は弥栄子の叔父である。京弥にとっては叔父ではなく、大叔父にあたる。弥彦と弥輔は親子ほど年の離れた兄弟であった。なぜそんなに年が離れているのかというと、それは二人の母親が違うからだった。弥彦の母は四十歳前に流行り病で亡くなり、その後に後妻に入った女性から弥輔が生まれた。
弥栄子は、父よりも自分に年齢の近い弥輔を、子供の頃から『お兄ちゃん』と呼んでいた。その流れか当然のように、京弥は物心がつくと、弥輔を『おじさん』と呼ぶようになった。嫁の早苗も『おじさん』と呼ばせてもらっている。
「お義父さん、どうでした? 会話できました?」
「うん。最初は俺が誰だかわからなくって、『弥輔だ』と名乗っても駄目で、でも親戚関係を説明したら『ああ、お兄さんか。なんとなくわかる。でもすぐに忘れてしまうんだ。すみません』って言って、でも俺の近況を、相槌を打ちながら聞いてくれたよ。その後『ここはのんびりできていいよ。お兄さんお姉さんも入って、一緒に暮らそうよ』なんて、本気か冗談かよくわからないようなこと笑って言ってたよ」
「お義父さんも楽しかったようですね。おじさんが来てくれてよかった」
読んでくださってありがとうございました<(__)>




