62.ハンカチーフ2
京一郎が施設に入った次の週末朝。洗濯を干し終わってリビングに戻ってくると、ソファに亮弥が座ってスマホを見ていた。亮弥が食事以外でリビングにいるのは珍しい。雪でも降るのかと考えながらキッチンに向かおうとすると。
「お母さん」
と声をかけられた。声までかけられるなんて、そこまでされると珍しいを通り越して気持ち悪い。早苗は立ち止まり亮弥の方を向く。
「これ」
亮弥はただそう一言言って、十五センチ×十五センチほどの正方形をした、白い厚紙のような物を差し出した。
「それ、何?」
早苗は差し出された物を受け取らずにまずそう聞いた。よく見ると封をしたような形跡が見え、ただの厚紙というよりは厚紙でできた封筒のように見える。
「お祖父ちゃんからお母さんに渡してって頼まれた」
亮弥はそう言った。京一郎はもう病院にいない。亮弥はいつそんな物を預かったのか。
「いつお祖父ちゃんから渡されたの?」
「渡されたんじゃない。だいぶ前に、お祖父ちゃんの代わりにこれを用意して渡してくれって頼まれた。お祖父ちゃんがいなくなってからお母さんに渡してって」
あの事件以降、亮弥は週末になると短時間だが京一郎を訪問していた。京一郎は亮弥を見ると毎回まずは『誰?』と困ったような顔をして早苗に尋ねた。『孫の亮弥です』と教えると歓迎を示すようににっこりと笑って、複雑な話はできないが、祖父と孫らしい互いを気遣う会話や学校生活の話などをしていた。室内の片付けでバタバタしている早苗が気づかぬうちに、どうやら京一郎は亮弥に何か頼みごとをしていたようだ。
「だからこれ」
亮弥は更に封筒を持つ手を早苗の胸元に近づける。
「そう、ありがとう」
早苗は封筒を受け取った。用事は済んだとばかりに、亮弥はさっさとリビングを出る。階段を上る音が聞こえてきたから自分の部屋に戻ったのだろう。
早苗は改めて白い封筒を見る。手に持った感触では、封筒の中に、薄くて僅かに弾力のある何かが入っている気がする。施設に移動する前の京一郎からは何も聞いていない。何が入っているのか想像がつかないし、とりあえず開けて中身を見るしかないだろう。
「何かしら」
独り言を言いながら、封筒のフタ部分を留めているシールを外した。フタを開けると封筒の入り口を両端から潰すように押し広げ、顔を近づけて中を覗き込む。
「ええ?」
早苗は驚きの声を上げた。
「ハンカチ?」
ピンク色の布と白いレースが見えたので取り出した。広げてみると間違いなくハンカチだった。パウダーピンクに赤い花柄の四角い布を、花をモチーフにして編まれた連続模様の白いレースが、かわいらしく縁取っている。
「これを、私に? いいえ、マリコさんによね」
京一郎がマリコにハンカチあげたがっていたことを早苗は思い出す。ハンカチを食卓の上に置いて、もう一度封筒の口を広げて中を覗き込むと中は空でなく、折りたたまれた白い紙が入っていた。取り出して四つ折りのそれを広げてみると、それは縦書き用の罫線の入ったシンプルな白い便箋だが、その罫線を全く無視して、乱れた汚い大きな字で、こう書かれていた。
『さなえさんへ
いままでありがとう
きょういちろう』
「え? さなえ? どういうこと?」
早苗は首をかしげる。この手紙は早苗宛てに書かれたものだ。字の汚さからいって代筆ではない。動きの悪い右手で書いたのか、利き手でない左手で書いたのか、早苗にはわからない。でもきっとこれは京一郎が自分で書いて亮弥に託したのだろう。ということは、このハンカチもマリコ宛てではなく早苗宛てということなのか?
京一郎に会いたい。会って確認してみたくなった。
「あなた、暇そうね」
亮弥を迎えに行こうと家を出たところで、花壇の端から端までびっしり植えられたパンジーたちに、優雅に如雨露で水をやっている弥栄子から話しかけられた。
数週間前、早苗は弥栄子に命令されるまま弥栄子を車でホームセンターに連れて行き、大量のパンジーや肥料を買って持ち帰るのを手伝った。その後早苗は弥栄子命令でパンジーを花壇に植えさせられた。
弥栄子の毒々しい早苗への言葉と、早苗の時間が弥栄子の家のガーデニングに取られた恨みから、早苗にはこのパンジーが少しもかわいいと思えない。パンジーに罪がないのはわかっている。でも一本残らず引っこ抜いて、意味不明な言葉を喚きながら家の前を流れる農業用水路に全部ぶち込んでやったら、さぞかし気分がスッキリするだろうと思う。
「毎日家で何してるの?」
京一郎の元へ毎日通わなくなったので、専業主婦の早苗が、弥栄子には暇人に見えるのだろう。
「資格でも取ったら? 佐藤歯科クリニックのお嫁さんは五人の子育て中なのに、歯科衛生士の資格を取ったそうよ。中川耳鼻咽喉科のお嫁さんは結婚してから医療事務の資格を取ったそうだし。皆、偉いわよねえ。それなのにあなたときたら、東京にいる頃から、いえ結婚前から、のほほんと過ごして。あなたには家族への献身の気持ちや資格に対する向上心がないの? 見習ったら?」
よく言うと思う。早苗を家族と思ったことなどないくせに。たとえ言う通りに早苗が資格を取って仕事を頑張っても、弥栄子は粗を探しては早苗を役立たずと罵るだろう。どんなに難しい資格を取ったって、褒めも喜びもされないだろう。弥栄子の口から出るのは早苗を見下す言葉だけだ。
じゃあ言わせてもらうと、自分はどうなのか。何も資格を持ってはいないではないか。でもそんなことを言い返したら、きっと弥栄子からはこんな返事が返ってくる気がする。
『私は南雲弥彦の娘よ!』
早苗は無言で車に乗り込む。そして車を発進させる。
「最っ低な女! だからお義父さんに好かれないのよ! ざまあみろ!」
自分以外誰もいない車内で、早苗はそう叫んだ。でもそれは跳ね返ってきて、自分にも一部当てはまる言葉で。早苗とて京弥から好かれていると言えない。早苗はマリコを思う。ある意味、彼女が羨ましい。彼女自身は何も知らされていないとしても。
そして早苗は明日、京一郎に会いに行くつもりだ。もちろんマリコとして。
読んでくださってありがとうございました<(__)>




