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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
61/65

61.Mariko

 院長室に着くと早苗は、五十年誌が置かれていた本棚に向かった。本棚には左右の本に押されることなく、五十年誌が引き抜かれた隙間がそのまま残っていた。早苗はそこに五十年誌を差し込む。首を回して机の向こうの窓を見る。窓の外には桐の木があり蕾が沢山ついている。桐はああして、防寒用にスエードの衣をまとったような見た目の蕾のまま、厳しい冬を越す。そしてあの蕾が開くのは五月頃。まだまだ先だ。

 その頃にはこの部屋も京弥のものになっているだろう。早苗はこの部屋からの桐の花は見られそうもない。こうして何度も足を運んでいたからだろうか、開花を見られないのは残念に思う。

 桐の花は淡い紫色だ。テルテル坊主のリボンの色に似ている。京一郎が言っていた、マリコの色だ。桐の蕾を見ながらそこまで考えて、早苗は頭の奥で何かが引っかかっていたのを思い出した。大事な何かを見落としている気がする。いや、大事な何かを確認せずに素通りしている気がする。そしてずっと引っかかっていたそれは、この部屋にあって、そしてそれは桐の木が見えるこの窓のような。


「まさか!」


 誰もいない部屋の中で早苗は叫んだ。それと同時に窓に駆け寄る。その大事な何かをきちんと確認するために。





 病院の廊下は、というかどこの廊下でも、走るのは禁止だ。でも今の早苗は走りたい衝動に駆られていた。一分でも一秒でも早く京一郎に会いたい。京一郎に手渡したい。そして京一郎を笑顔にしたい。興奮した早苗の頭の中はその思いで一杯だった。

 京一郎の病室のある階でエレベーターを降りると、速足で病室に向かう。院長室から病室までの距離がいつもよりもずっとずっと遠く感じられる。長い廊下を歩きながら、早く早くと気ばかりが急いていた。


 ドアが開きっぱなしの病室の入り口に着いて廊下から中を覗き込むと、京一郎は先程と同じ場所にいて窓の外を見ていた。


「お義父さん!」


 思わずそう声をかけてしまって早苗はまずいと思った。マリコは京一郎をお義父さんとは呼ばない。怒らせてしまうかもしれないと早苗は恐々中に入ったが、京一郎は窓の外を見たままで、振り向きも返事もしなかった。考えてみれば毎日午後早苗が病室へ入る時に声をかけるが、車椅子に乗る京一郎がそれに気づいたことはない。今の呼びかけも気づいていないのかもしれない。そして早苗はそうであることを祈りながら近づいた。


「京ちゃん」


 早苗は京一郎の隣に立つと京一郎の方を向いて体を屈める。そのくらい近くから声をかけられると、やっとそこで京一郎は顔を斜め上に向けて早苗を見る。今日は早苗が屈んでいるので、京一郎は少しだけ顔を斜め上に向けた。


「こんにちは、マリコさん」


 今日の午後早苗がこの病室を訪れるのは二度目である。京一郎はそれをわかっているのかいないのか、ただ普通に挨拶をした。


「これを、これを見つけたんです」


 興奮した早苗は少し息を弾ませながら、密封するためのジップつきの小さなビニールパックを右手の平にのせて、京一郎の胸元へ差し出した。


「こ、これはどこに?」


 京一郎は左手でそれを受け取ると、左手を顔に近づけてビニールパックをじっと見る。


「窓と網戸の隙間に挟まっていました」


 ずっと誰も片付けないゴミだと思っていた、汚らしくて小さい透明なビニール。早苗は今まで気づかなかったが、早苗の記憶に妙な引っかかりを残していたのは、そのビニールに油性黒マジックで書かれた何か、だった。その書かれた一部がMのようなWのような。


「マリコさん……」


 京一郎はビニールパックを握りしめるとその手を胸に当てた。そして下を向いて目を瞑る。体が僅かに震えていた。


 ビニールパックのジップ部分の真下には、マジックでこう書いてあった。


『Mariko』


  風の強い日に弥栄子は外に放り出したと聞いている。でもそれはそのまま飛ばされずに、窓の方へと戻っていたのだ。そして偶然、網戸と窓の間に挟まった。あの部屋に出入りしたのは京一郎と京弥と早苗と掃除のスタッフくらいか。その中でも窓と網戸の間の見えにくい場所に、あのビニールが挟まっているのに気づけたのは早苗だけだったようだ。早苗が女性で美しい花の咲く桐の蕾が気になったのも、気づけた要因の一つかもしれない。


「よかったですね」


 早苗はそう声をかけた。

 ビニールパックの中全体が少し黒っぽく見えるのが、もしかしたら飛ばされずに残った灰の粉かもしれない。ほんの僅かだが、マリコの絵の灰は京一郎の元に戻ってきた。京一郎がここを出る時に持たせてあげようと思う。ゴミと間違えられて捨てられないように、何か箱に入れて。





 三月四月と慌ただしかった。京一郎は他県の高齢者施設へと移り、早苗はその引っ越しともいえる移動を任されたからだった。早苗はあのビニールパックを入れる箱は、最初に入っていたのと同じような寄木細工の箱を考えた。しかし弥栄子に捨てられたのを思い出したら京一郎が悲しむような気がして、別の箱を選んだ。藤の花の描かれた螺鈿細工の箱にした。ビニールパックを箱に入れて箱ごと京一郎の手に握らせてみたら、京一郎は嬉しそうに微笑んだ。この箱と赤い表紙のアルバムは、忘れず転院の荷物の中に入れねばならない。そう、テルテル坊主と座布団も忘れずに。


 京弥からは弥生と亮弥の二枚のL判写真が入った、革製の写真立てが渡された。弥生には最近撮られた写真自体がなく、亮弥は最近撮られた写真の中に笑顔の写真がなかった。京弥は『かわいげのない、反抗的な』などとブツブツと文句を言いながら、入れる写真を探していた。

 弥生は高校の卒業式の写真。弥生の友人がタイミングよく変顔をして弥生を笑わせたので、偶々笑顔が撮れたのだ。これ以降は大学の入学式の写真しかなく、それは一枚残らず仏頂面であった。

 亮弥は小五の時の十一歳の誕生日、ケーキを前にした写真。東京に住んでいた頃の物だ。これ以降、亮弥の笑顔の写真もない。二枚とも随分前の写真だが、京一郎は写真立てを手に取って嬉しそうに見ていた。


 早苗をマリコと間違えること。弥生や亮弥という孫たちのこと。京一郎の頭の中でそれらの情報がどう処理されているのかはわからない。でも早苗は京一郎が笑顔なら、それはどうでもいいことのような気がした。

 弥栄子はあれ以来一度も京一郎の病室を訪れなかった。


読んでくださってありがとうございました<(__)>

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今週もお邪魔しました(((o(*゜▽゜*)o))) 京一郎さぁぁぁん。゜(゜´Д`゜)゜。 静かに覚悟して過ごす京一郎さんに涙が…。゜(゜´Д`゜)゜。 そして、アレ…でさらに涙腺が刺激さ…
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