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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
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60.守れなかった約束

「お母さん、お祖父ちゃん老人施設に入るの?」


 夕飯前、早苗は亮弥から話しかけられ驚いた。亮弥との普通の会話なんて、この場所に引っ越してからの早苗にはほぼなかったから。大人との会話を嫌がっていますと主張しているかのような亮弥のオーラは、とてもじゃないが近寄りがたく、家族への拒絶壁は恐ろしく高く分厚く感じられていた。


「そうよ。今探しているの」


 亮弥の視線はリビングのローテーブルの上に散らばっている、大量の老人ホームのパンフレットに注がれていた。亮弥はいつも通りの、頭の中が読めない無表情のままでそれに目を落としている。


「南雲病院を出るんだ」

「すぐではないけど」

「お祖母ちゃんの命令?」

「命令だなんて……病院よりも介護施設の方が、ケアがいいと話がまとまったのよ」


 と口では言うが実際は亮弥の言う通り、弥栄子の命令である。『みっともない騒ぎを起こした京一郎を南雲病院に置いておきたくない、頻繁に見舞いになんていかなくていい場所に押し込みたい』、と弥栄子が京弥に訴えたからだった。京一郎の排除が決まったとしか、早苗には思えない。


「じゃあ考査が終わったら、お祖父ちゃんが施設に入るまで、週末はできるだけお祖父ちゃんに会いに行くよ」

「え?」


 早苗は再び驚いた。何か心境の変化でもあったのか。それとも亮弥の中で京一郎だけは扱いが別なのか。


「そ、そう」


 早苗は亮弥の話に戸惑い、でもどんな言葉が刺激になって亮弥が不機嫌になるかわからないから口を開くのが怖い。頭をフル回転させてみても、頭に浮かぶ様々な言葉の中から、この場で相応しい言葉を選び出せない。亮弥は、それ以上は何も言わずに席に着くと、「いただきます」と言ってから、黙々と置かれた夕食を食べ始めた。





「こんにちは」


 早苗は京一郎の病室に入った。いつも通り車椅子に座り窓の外を見る京一郎から返事はない。荷物やコートを椅子に置いてから京一郎の隣に立つ。そこで声をかけて初めて京一郎は来室者がいることに気づいて早苗を見上げる。京一郎は窓の額縁に座布団に乗せたテルテル坊主を置いて、膝の上に五十年誌を持った手を置いていた。


「マリコさんか。今日は浅間山が見えるぞ」


 京一郎はにっこり笑うと、嬉しそうな声で言った。


「春には珍しい。いいお天気ですね」


 気温も高く雲一つない快晴。とはいえ多少の靄はある。ただ昼から風が強まってきた。冬の空っ風とは違う、春を感じさせる生暖かい風だ。


「暖かくなりましたね。山開きはゴールデンウィーク頃かしら」

「もう少し遅いよ」

「そうですか」


 そこで急に京一郎の顔から笑顔が失われる。早苗の心の中は戸惑う。京一郎はマリコである早苗と他愛のない話をしていただけのはずだ。突然の表情の変化の原因がわからない。早苗は身を屈めて京一郎の顔を覗き込む。


「ど……」

「マリコさんとの約束、守れなくなった」


 『どうしましたか?』と尋ねようとしたのを遮られた。


「約束?」

「浅間山に行く、一緒に」

「え? あ?」

「もうここにはいられないから」


 京一郎が理解するかしないかわからないが、京弥は一応病院から施設へ移すという話を、近々京一郎にすると言っていた。今朝か昼休みか、京一郎は京弥から聞いたのかもしれない。聞いたことをすぐに忘れる京一郎でも、マリコとの約束に関係することだからまだ覚えていられたのか。


「遠くに行くんだ。マリコさんにも会えなくなる。さよならだ」


 京一郎は早苗から目を逸らして小声で言う。寂しいのだろう。京弥がどんな施設を選んだのかは聞いていない。

 できれば山が見える施設に入れてあげたい。そんな話を京弥に一度してみたけれど、『親父のことには一切口出しするな!』と言われて相手にもされなかった。彼らの認識では早苗は家族ではないし、あの騒ぎの元凶と決めつけて性悪女と思っているからだろう。

 相談は一切されなかったし、その後決まったという話も聞かされなかった。京一郎に腹を立てている弥栄子は、頻繁に会わずに済む距離がいいという。二人が決めた京一郎が移される施設は、今のような毎日行ける距離ではない場所に決まっただろう。



「遠くても、偶には会いに行きます」

「本当に?」

「はい、本当に」


 京一郎は再び早苗に視線を向けパッと花が開いたような笑顔になる。眼も輝いていた。


「待っているよ」

「はい」


 京一郎の視線は再び山へ。早苗は立ち上がると用事を済ます。帰ろうと思いコートと荷物のある椅子へ向かおうとすると。


「頼みがあるんだ」


 京一郎に声をかけられた。


「なんでしょう」

「これを、戻してきて欲しい」


 京一郎はゆっくりと不器用そうに左手で五十年誌を持つと、その手を少しだけ膝から持ち上げて、早苗の方へ本を差し出した。


「もう読まないのですか?」

「ああ。もういい」


 早苗は五十年誌を両手で受け取る。


「代わりに持ってくる物はありますか?」

「今はいい」


 早苗は帰り支度をすると退室を告げ、病室を出た。





 院長室へ向かって廊下を歩く。早苗は右手に持っている五十年誌について思いを巡らす。何年前だったかは忘れたが、弥栄子から南雲家に入る者の当然の知識だと言われ、ちゃんと読んで覚えるようにと渡された。でも学校の歴史の授業のように、後日ちゃんと覚えたかテストされるわけではなさそうなので、短時間でざっとだけ読んだ。その後は全く手を触れていない。自宅の本棚の隅で眠っている。


 病院の設立の嘆願から、奔走、計画、建設、開院、診療が軌道に乗るまでの苦労、その後の拡充などなど、弥彦の医療人としての人生を捧げた活躍が事細かに描かれている。京一郎に関しては病院の近年の様子について書かれている部分で、弥彦の遺志を継ぐ者として写真つきで紹介されていた。でもただそれだけである。

 確かに弥彦がなしたことは素晴らしい。称賛に値する。でも早苗は京一郎について、もっと詳しく沢山記載されてもいいのにと思う。あの年までずっと病院を支え続けてくれた人ではないのか。それにしては扱いが酷いのではと思った。

 そして近々京一郎はこの地から追い出される。


読んでくださってありがとうございました<(__)>

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