59.騒ぎの後
「話は終わりね。帰るわ」
堂々と終わりを告げる早苗を前に、ついに全身で震えるようになった京弥は何も言わない。呼び止められたくない早苗は、今のうちとばかりに素早く会議室を出る。廊下をエレベーターに向かいながら早苗は、今聞いたばかりの話を頭の中で繰り返す。一つ一つを見直していくと、一連の出来事の中の何かが早苗の記憶の奥底のどこかに引っかかるのだが、その正体が判然としない。それをそのままにしておくのは気持ち悪いのだが、京弥との話に思ったよりも時間を潰してしまった早苗は、これからの予定がぎっしり詰まっていて時間に追われている。とりあえずは考えるのをやめ家に戻ろう。亮弥を迎えに行く前に、やらねばならない家事が沢山あるのだから。
季節は冬から春へと移っていく。晴れ・雨を繰り返す天気に、京一郎が病室から山を見られる日数も冬場の半分以下になってしまった。春霞が酷い日もある。
「テルテル坊主が効かないなぁ」
弥栄子の指図は受けない。京一郎とはしっかりマリコとして会話をするつもりだ。早苗からも話しかけるし、京一郎から話しかけられれば無視はしない。
「春ですから」
「そうか。暖かくなるな」
京一郎とそんな会話をしながら穏やかな時間を過ごす。それももうあと僅かだ。これから数カ月で南雲家と京一郎の生活は変わるのだから。
「また明日来ますね」
「ああ」
早苗は病室を出る。廊下をエレベーターに向かった。
思い出すに、あれからの早苗の周辺の動きは目まぐるしかった。まず、早苗はいまだに弥栄子に命令通りの意味の謝罪をしていない。京弥と話を終えて家に戻るとすぐに、偉そうな表情の弥栄子が突撃してきたので、『あの場にお母さんと京弥さんを置き去りにして逃げたことは謝りますが、それ以外に謝ることはありません』とだけ言った。そしてその晩、弥栄子から連絡がいった京弥に早苗は散々詰られた。言い返したかったが運悪くリビングに亮弥がやって来たので、言い返せなかった。子どもの前で喧嘩をするわけにはいかない。それが悔しいがその後話そうとしたら、『俺の考えは全部言った。それに納得できないという、お前のおかしな考えを聞く気はない。そんな話を蒸し返したいくらい暇なら、もっと大事なことに時間と頭を使え!』と京弥に怒鳴られそれっきりにされている。もう早苗と弥栄子、両者の間に立つのが面倒臭いのだろう。それとも自分を一方的に正当化できて満足しているのか。本当に悔しい。だからこそ尚更、弥栄子や京弥の言うことなどきいてやる気はない。
早苗の態度にいら立った弥栄子は、早苗の実家に文句の電話をした。『あなたの娘の姑への、礼を欠いた態度を謝罪しに来い』と早苗の母に言ったらしいが、母は『あれはもう成人、親は関係ない、お断りします。どうぞ本人と話し合いを』と言って電話を切ったらしい。その後、母から早苗に電話がかかってきて、『こっちは会社も順調で婿や孫とも平和で楽しくやってるんだから、あんたは親に迷惑をかけない生活をしろ! それに私もあの偉そうで失礼なお義母さんは嫌い。あれと関わるのはお断り! 私たちを巻き込まないで!』と一方的に怒られて電話は切れた。弥栄子は『親があんなだから、娘も非常識で育ちが悪いのよ』と言っていた。
それから弥栄子は、早苗との別居を京弥に勧めた。当然大事な亮弥は弥栄子の元に置いて。弥栄子は早苗の顔を見たくないから、早苗に出ていけと言う。京弥に食べさせてもらっている無能のくせに生意気だから、放り出されて生活に困ってみればいいと言う。しかし子どもの亮弥や車を運転する気のない弥栄子の面倒を、忙しい京弥が一人で見られるはずもない。京弥は今早苗に出て行かれては困る。その願いは不可能だと京弥は弥栄子を平身低頭で説得するしかなかったが、弥栄子は『敬うべき私を皆で馬鹿にして!』と聞く耳持たず。京弥は仕事以外の時間を弥栄子に追い回され困り果てていた。
しかしある日突然弥栄子は、『謝罪、謝罪。別居、別居』と騒がなくなった。『あんたが反抗的で不出来だから、かわいい亮弥のために心優しい祖母の私が我慢するの』と早苗に言っていたが、早苗にはその変化の原因がよくわからない。もしかしたらだが、京弥と弥栄子が入院した頃から弥栄子が毎朝見送る時の亮弥の顔つきが、無表情ではなくなったからかもしれない。
亮弥は少し目を細めて一瞬だけ弥栄子をねめつけ、目を逸らしてから挨拶はするがその後に、口の片端を馬鹿にするように僅かに上げて鼻で笑っていた。弥栄子は亮弥がどんな態度を取ろうと、嫌われたくなくて何も言えない。亮弥の見ていないところで、早苗の育て方が悪いと早苗の子育てを批判するくらいしかできない。京弥が亮弥のこの態度を知ったら激怒するだろうが、弥栄子は亮弥が怒られるのをよしとしないので言いつけられないし、早苗は京弥に相談する気すらない。早苗にとっては弥栄子の自業自得の一つでしかない。
こんなに弥栄子を見下すような態度をとるようでは、早苗が出て行くと言ったら亮弥も早苗についてきそうである。無理やり亮弥を留めて早苗のみを追い出したって、周囲の大人を敬う気のない亮弥の相手を、京弥と弥栄子のみでできるとは思えない。京弥がその態度を叱りでもしたら亮弥は今以上に部屋に籠り、亮弥の心は大人たちから一層離れていくだろう。
弥栄子は大事な跡取りかつ弥彦に生き写しの亮弥に、これ以上臍を曲げられたくない。だから折れたのでは。うるさいことを言わずにしばらく放っておけば、そのうち亮弥も笑顔はないだろうが、元の無表情に戻るだろう。
その後の弥栄子はまるで何事もなかったかのように、早苗に対して意地悪姑然とした、事件前の、通常モードの弥栄子に戻っている。
しかしあの弥栄子の気がそれですむはずもなかった。彼女の溜まりに溜まったうっ憤は、夫である京一郎へと向けられる。
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