58.いい気味よ
こうして京一郎の手元にあった、マリコの思い出は失われた。
きっとマリコに会えない京一郎にとってあの灰はマリコの象徴、それ以上にマリコそのものだったのだろう。その大切な灰は荒れ狂う大気の中にばら撒かれた。強風に乗ったそれはどうやっても戻らない。まさにあの京一郎の言葉、『だってあの日、もう二度と戻らないと思った』が意味するのはきっとこの出来事だ。
そして早苗はあの日京一郎が叫んだ、『燃やされる』、『捨てられる』の真相を理解した。郁によって絵が燃やされ、弥栄子によってその最後の灰が捨てられた。
「二人は言い合いを始めた。『俺は医者の仕事をしながら、母のような女とは正反対の、ささやかで暖かい家庭を築ける女性と静かに暮らせればいいと思っていた。俺の希望はそれだけだったのに。お前は俺の母・郁にそっくりだ。母とお前は同類だ』『同類? 私は南雲弥彦の娘よ。夫に捨てられて貧乏人になったのに、以前の、金持ちの娘だった頃の生活が忘れられずに不相応に浪費する、駄目人間のあなたの母親と一緒にしないで!』、『金じゃない。人としての根本の話だよ。自分のことしか考えられず人を平然と傷つけられるところが、二人ともそっくりだと言ったんだ』、こんなやり取りから二人はヒートアップして、母は父に『恩知らず! 二度と南雲家の敷居を跨ぐな!』と怒鳴りつけ、ろくに金を使えないようにし父を追い出した。父は仕事関係の余程の用事がある時以外は家に帰って来れなくなった。当時、病院や車や偶にビジネスホテルで寝泊まりをしている父の姿が、よく見られたそうだ」
それで京一郎は体を壊し倒れ、あんな状態になったのだ。
「全く、親父は何を考えているんだ。いい年をして、大事なお袋を怒らせ、医師としての自覚もなくこんな状況を作って、みっともない騒ぎを起こして」
机の上に置かれた京弥の両こぶしが震えている。しかし早苗の心には、京弥の言葉は響いていない。早苗の頭の中は京一郎の人生への悲しい想いで一杯だ。
「お袋がかわいそうと思わないのか!」「お義父さんの人生、かわいそう」
ほぼ声が被った。早苗は京弥のこぶしから顔へ視線を移す。
「はあ?」
京弥は目を見開いてそう言うと、その口を閉じずにポカンと開けたまま早苗を見ている。お互いの口から出た言葉が全く嚙み合っていないので驚いたのだろう。すぐに京弥は顔をしかめて自分のこぶしに視線を落とした。しかしそれは数秒のことで、すぐに早苗に視線を戻す。しかし京弥は顔を、かなり立腹しているとわかるほど険しく歪めていた。
「本来お前は同じ女性として、お袋の気持ちがわかるはずだろう? 親父に腹を立て、お袋の肩を持つはずだろう? だからここまで詳しく、マリコについてまで含めて説明したのに」
早苗はある意味驚愕した。京弥は早苗の共感を得られると思って、こんなに長時間マリコについて語っていたのだと。そしてこの話が早苗の心に弥栄子への同情心を生むと、本気で思っていたのだと。早苗ごときにこんなに詳しく話してくれるなんて何かあるとは思っていたが、これはない。
京弥も京一郎同様、患者から評判のいい医者である。患者から感謝の手紙をもらったことも一度ならずなん度もある。そこまで患者の気持ちはわかるのに寄り添えるのに、妻というこんな身近な人間の気持ちがこの話でどう動くか、これっぽっちも想像できないのだ。そして早苗から見て、まるっきり頓珍漢なことを言う。
「なのに……なんだ、その言いざまは。なんでそんな酷いことが言える? ああ、そうか、早苗はそこまでお袋が嫌いか?」
静かな声だが早苗に対する失望がわかる。関係を悪くしたくなくて日頃は口に出さないだけで、早苗は弥栄子のことを心の中ではもの凄く嫌っている。彼女には関わりたくないし、会話したくないし、近くにいたくないし、罵倒してやりたいし、この話を聞いても自業自得で笑えるし、少しも気の毒と思えない。京弥の言う通りだと思う。早苗はそこまで弥栄子が嫌いだ。蛇蝎の如くと言ってもいいのではないか。
「ええ、嫌いよ、大嫌い。フフ、今回のことはいい気味よ」
早苗は我慢できず、とうとう想いを口にした。それと同時に体内に清らかな風が吹き込んで、今日までずっと溜まりに溜まっていた胸の澱みを吹き飛ばしてくれたような気がして、全身がスッと軽くなった。
京弥は早苗を憎々しげに睨みつけ、きつく握ったこぶしをブルブル震わせている。そしてそのこぶしは小刻みに机を叩き始めた。トントントンと、イラつきを感じさせるような短い間隔の小さい音が続く。そして京弥は口から長く深く息を吐いた。
「お前はなんて女だ」
ドスの利いた声。早苗はあんなに怒っている京弥を初めて見る。早苗は京弥から暴力をふるわれたことはないが、あの震えるこぶしは早苗を殴りたいのだろうとわかる。早苗の言葉に傷ついた彼は、きっとその衝動を必死に自制しているのだ。だってここは病院の一室。憤怒に我を忘れて早苗を殴ったら大騒ぎになる。ここだけではなく帰宅後の家でだって、早苗を殴ることはできない。もし殴られたら、早苗は殴られた痣を医師に見せるつもりだから。そして知人に言いふらす。
そんな事態になったら、これまで尊敬を集めてきた医師としての彼の人生に、DVなどというつまらない理由で決して消せないシミができる。それに医師の、院長のDV。偉い人にまつわる悪い噂ほど、周囲には楽しい話題になる。
京弥は早苗に憎々しげに言葉を発するのがせいぜいだろう。早苗はついつい笑ってしまった。ここまでだ。
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