57.窓を開けて強風の中へ
京弥が言った院長室の机の中に隠された木箱。早苗はそれがあの寄木細工の箱ではないかと思った。しかしあの箱の中は空だった。中身はきっと灰の密封されたビニールパックだ。そしてきっとそれは弥栄子に見つかって、無情にも捨てられた。
「そして数年前、父と母の間でとある事件が起こった」
その事件は灰が捨てられたことに関係していると早苗は確信している。
「その日、父は急に呼ばれて、机の上を片付けずに院長室を出たらしい。そこへ入れ替わるように母がやって来た。そして母は机の上を見たんだ」
「机の上を見たって……どうやって部屋の中に」
京一郎は部屋の鍵を閉め忘れたのだろうか。院長室は鍵がなければ入れないはずだ。
「母は院長室の鍵を持っている」
「え?」
「俺も院長室の鍵は二つだと思っていた。一つは父が持っていた鍵、すなわち今早苗が預かっている鍵だ。もう一つは病院の事務室が預かっていて、俺が院長室に用事があるときに貸してもらう鍵だ。しかしそうではなかった」
「鍵っていくつあるか知らなかったけど、お義母さんが一つ持っていたの?」
「母が個人的に所有している鍵。母は南雲弥彦の娘として、鍵の所持は当たり前と主張している」
弥彦を崇拝し自らを特別と思っている、弥栄子らしい常識だと思う。
「母は家にある弥彦お祖父さんの遺品を、自分の目が黒いうちに病院に移そうと計画していた。俺はともかく、他家から嫁いだ早苗が遺品をぞんざいに扱うかもしれないから、遺品の管理を早苗に任せたくないと考えての計画だ。遺品を病院管理にするならば、院長室とか、廊下とか、特別に部屋を用意するとか、院内のどこかに遺品を飾るスペースを作れないかと、まずは院長室を下見にやって来た」
弥栄子は、遺品は子孫が守るべきと言っていた。だから病院に渡さないのだと。しかし南雲家を敬う意識の足りない早苗に杜撰な管理をされるくらいなら、病院管理の方がまだましだと弥栄子は考えたのだろう。早苗にとっては失礼な話だがこれっぽっちも怒りはわかない。実際早苗は弥彦の遺品など全く興味がない失礼な人間だし、病院が預かってくれるならその方がいい。ただ弥彦の孫にあたる京弥は弥栄子と同じ気持ちで『子孫が管理派』かもしれないし、彼が『自分がやる』、と言い出す可能性は多大にあるのだが。しかし仕事で忙しい身の京弥に管理などできまい。多分、管理ではなく放置、結局早苗に丸投げとなるだろう。
「母は机の上を見て驚いたそうだ。そこには木箱とビニールパックと便箋と万年筆が置かれていて、長谷川鞠子への手紙が書かれていたから」
早苗が見た便箋には、長谷川鞠子様という出だしだけ書かれていた。でもその日弥栄子が見たのは、京一郎がシュレッダーにかける前の、完成した状態の手紙だったのではなかろうか。
「母はそれを見て腹が立ったそうだ。内容は近況報告で浮気を疑うような内容でなくても、親戚の女性にこんな親しげに手紙を書くなんて非常識だと」
京一郎は手紙の内容を『近況、健康、つまらない内容』と言っていた。だから手紙の内容がラブレターというのはあり得ない。色気のない内容だっただろう。しかしプライドの高い弥栄子はそんな手紙でも許せなかったのだ。それに弥栄子は京一郎がそれを投函せずにシュレッダーにかけるつもりと知らず、こっそりとマリコの元に送られるのだとも思っただろう。
「呼ばれた仕事から戻って来た父は、院長室の中で便箋を持つ母と鉢合わせ。母は父を詰った」
どんな風に詰ったのか想像がつく。きっと弥彦の業績の話や、弥栄子のプライドの話や、京一郎がすべき感謝の話や、ヒステリックに喚いたのだろう。
「母は長谷川家にマリコという出戻り娘がいること、父が世話をしてくれた彼女を慕っていることは知っていた。俺が今早苗に話した内容の中で当時まだ母が知らなかった父の人生の部分を、父はその場で母に打ち明けた。マリコとの思い出は、その灰とコンクールの写真しかないこと。父はこの灰を、世話してくれたマリコの思い出として大切にしていること。この灰を見てマリコを思い出し仕事を頑張っていること。一人の時この灰に語りかけたり、灰を見ながら手紙を書いたりしていること。手紙は書き終えても送られることなく、そのままシュレッダーにかけていること。マリコが今どこに住み何をしているのかさえ知らないことも話した。現に祖母が亡くなって遺品などの後始末が終わってから、うちと長谷川家とは音信不通だし、長谷川家は何十年も前に商売を畳みどこかへ越してしまったと、弥輔おじさんから聞いている」
弥輔は弥彦の弟で南雲家の中では一番の年配者。どこかから回ってきた昔の情報を偶々記憶していてくれたのだろうと思う。
「母は許せなかった。『あんたが最も気にかけねばならない女性は、あんたが最も大事にしなければならない女性は、あんたが最も愛さねばならない女性は、それはこの私だ! それなのになん十年も前の子ども時代に五、六年を一緒に過ごしただけの、しかもあんたを振った女へ出せもしない手紙を書くあんたは、頭がおかしい。灰に話しかけたり、灰を見ながら気遣いを示す手紙を書いたりするあんたは、頭がおかしい。その女を描いた絵の灰をビニールパックに入れて大事にとってあるあんたは頭がおかしい』というような内容の話を母は父にした。父は手紙を書く時にそのビニールパックを便箋の横に置いて書いていた。母は机に便箋を叩きつけてそのビニールパックを掴み取ると、机のそばの窓を開けた。その日は風が強い日で、母はビニールパックの口を開けると袋を振って、中の灰を全部風の中に撒いた。ビニールパックも風の中に放り出した。そして窓を閉め、母は父に言ったんだ。『気持ち悪い話はもう沢山。吐き気がする。これでスッキリしたわ。ちゃんと私と南雲家に仕える真面な人間になってね』」
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