55.マリコを描いた絵
こうして京一郎と郁は長谷川家で暮らし始めた。
「引き取ったといっても、二人は実際長谷川家の中で暮らしていたわけではなかった。長谷川家の商売は従業員が多かったので、会社兼住居の建物の隣に社員寮を建てて、希望する従業員はそこで暮らしてもらっていた。二人も寮に一部屋を借りて暮らした」
郁が社員寮から逃げ出したという手紙があった。最初はそこで京一郎と二人で暮らしていたのか。
「真面目に働くと約束したくせに、祖母の勤務態度は、それはそれは悪かったらしい。遅刻は多いし仕事はなかなか覚えない。金遣いも荒かった。月々の給料はもらっても一カ月もたずに、すぐに使いきってしまう。お金が底をつく度に祖母は長谷川家に前借をお願いしたり、自分の実家や離婚した祖父の実家にもお金を借りに行ったりしたらしい。しかも借りた金は返さない」
早苗は手紙の内容を思い出す。郁の実家の原田家も郁の元夫の実家の石川家も、郁の金の無心に困っていた。
「母親がそんな有様では当然しわ寄せが子どもにいく。父は衣服や食事をろくに与えてもらえなかった。そんな父に手を差し伸べたのが郁の伯父の孫娘、マリコだった。それは父が小学校中学年、マリコが中学生の時だった」
早苗は、あれ? と思った。写真では、京一郎とマリコと思しき二人には、ほとんど年齢差がないように見える。小学校の教室らしき場所で同学年のようなで幼さで写っていた。早苗の認識と違っておかしいなとは思うが、それを京弥に尋ねるのは駄目だ。それは早苗が知っているはずのない情報だから。とにかく今は京弥から情報を得よう。
「学校帰りのマリコが寮の前を通りかかった時、どこで転んだのか膝に擦り傷があり、その傷を洗いもせず泥だらけにしたままの父が、寮の前の石段にぼんやりと座っていた。ガリガリに痩せてつぎはぎだらけのサイズの合わない服を着た、哀れな子どもだったそうだ。マリコは井戸水で傷の泥を洗い、傷にハンカチを結んでくれた。そのまま長谷川家に連れ帰って父に食事も与えてくれた。それを聞かされた祖母は、表面はマリコに感謝し、後日血で汚れたハンカチの代わりに新品のハンカチを買ってマリコに渡しもした。だが実際の祖母の心中は違った。祖母はこの出来事が気に入らなかった。食べ物を恵んでもらってみっともないということとハンカチの購入に余計な金を使わせたという怒りで、まだ子どもの父を叩いて怒鳴りつけた」
それでハンカチを……早苗の頭の中に京一郎の話が浮かんでくる。マリコにハンカチをプレゼントしたいというあの話が。
「それを社員たちの世間話で耳にしたマリコは両親にお願いした。『あれでは京ちゃんがかわいそうだ。私が学校から帰って来たら面倒を見たい』と」
マリコの呼ぶ京一郎の愛称。だから京ちゃんなのだ。京ちゃんと呼んで欲しいのだ。
「当時の長谷川家の主人である、祖母の伯父はそこまでする必要はないと言い、その妻は元から祖母を嫌っていたので、とんでもないと大反対した。しかしマリコは折れなかった。食事をさせたり、勉強を見たり、銭湯にも連れていったりして父の面倒を見てくれた」
ああ、だから京一郎にとってマリコは、どちらかといえばお母さんなのか。
「そうやって父はマリコを慕うようになっていった」
マリコの正体はわかった。しかしそれがマリコの正体なら、マリコに該当する人物が写った写真はアルバムのあのページにはない。その理由を聞きたいのだが、京弥は最も知りたいそこの部分を話してくれるだろうか。話してくれないとアルバムに関する早苗の疑問は解決しない。
「父が小学校高学年になったころ、学校で絵画コンクールがあった。課題は『家庭の生活』。父にとって父親はいないに等しい。母親はあんなだ。周囲の子どもたちのように両親や兄弟と仲よく過ごす、暖かな家庭の絵を描けなかった。だから父は大好きなマリコを描いた。父はおさげ姿の少女と二人で食事の支度を手伝う絵を。おさげの少女とはマリコだ。父はマリコのために一生懸命描いて、絵は小学生とは思えないほど生き生きと上手に描けて、美術に詳しい先生から褒められ表彰もされた。アルバムの中の、小学校時代の写真の一つはその時の物。壁に貼られた絵の中に父の描いた絵があるので、父はアルバムを大事にしていた」
ということは。
早苗はあの、沢山の絵が壁に貼られた教室の写真を思い出す。あの何枚もの絵の中に京一郎の描いたマリコの絵があったのだ。だからあの写真が唯一のマリコの写真と言ったのか。
早苗はずっと京一郎と一緒に写るあの少女がマリコなのだと思っていた。それを見ていたのだと。でもそれは違った。あの後ろの絵のどれかこそが、マリコだったのだ。小さな写真の中の主要人物たちの背景に、何枚も貼られている絵の中の一枚。京一郎はそれをじっと見詰めていたのだ。
「絵と表彰状を見たマリコは喜んで誉めてくれたが、絵は逆に祖母を激怒させた。祖母は『家庭』という課題なのに、父が家族ではないマリコを描いたのを叱った。どうしてちゃんと唯一の家族である母親の姿で描かないのか。嘘でいい、常識で考えれば、理想的な母子家庭の光景が描けるだろう。こんな異常な絵を描いて、親に恥をかかせたいのかと」
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