54.妄想
京弥はボイスレコーダーの録音を止めた。弥栄子の話の再生を聞かせるためかと思ったが、そうではなさそうだ。先程弥栄子の声にあれだけ嫌そうな顔をしていた京弥は、弥栄子のあんな話ばかりの長時間再生など聞きたくないだろう。そんなほぼ無駄話は早苗だってお断りなのでありがたい。どうやら京弥は、早苗が反抗的なので自分や弥栄子の気分をよくしてくれる話が出そうもないから、録音を止めたみたいだ。最初は何が目的の録音と思って訝しんだけれど、そんなくだらないことのためだったとは。京弥は口で説明を始めた。
弥栄子の話はこうだ。
京一郎から院長室にある木箱を取ってくるように頼まれた性悪の早苗は、京一郎が大事にする箱がなんなのか興味を持った。早苗は箱についての詳細を聞き出しそうと京一郎に上手く取り入り、認知症が始まっている京一郎の口から、マリコという名を引き出した。いい情報を手に入れた早苗は京一郎を騙してマリコについてどんどんと語らせ、マリコという人物の詳細を頭に入れていった。嬉しいことにマリコは弥栄子への嫌がらせの材料にできる人物だった。早苗は、京一郎のマリコへの愛情の話を聞いてやったり、マリコの写真の貼られているアルバムを持ってきてやったりした。やがて京一郎は毎日やって来る女が早苗なのかマリコなのかわからなくなった。
そしてあの日、早苗はマリコとして弥栄子に虐げられているように見せ、病室を訪問した弥栄子と京弥を京一郎に襲わせた。
「と、お袋は言っている。そうなのか?」
早苗は弁明だなんだ以前に、開いた口が塞がらなかった。凄い妄想である。当たっているのは京一郎が、毎日やって来る女が早苗なのかマリコなのか、わからなくなったという部分だけだ。
「そうなのかって、そうだと思っているの?」
早苗はまた尋ね返した。
「俺にはわからない。でも違うなら何があったのか言って欲しい」
わからないとは。二十年以上一緒にいるのに、妻がそう言う人間だと疑っているということか。
弥栄子とはそれ以上の長い時間のつき合いだし母親だから、そちらの方が信用できるということか。
早苗こそ溜息をつきたい。確かに最初は困って、その後は面白がって、早苗をマリコと思う京一郎を放置はした。ざまぁとも思った。しかし最後には京一郎に寄り添いたいと思った。京一郎が早苗をマリコと呼び出したその始まりの時点から、弥栄子へ嫌がらせをするために早苗自ら京一郎を嗾けたとか、誑かしたとか、それはない。
「私はマリコなんて知らない。お義父さんに頼まれてアルバムを取ってきただけ」
早苗も意地になってきた。京一郎とのやり取りなど一言も教えてやるものか。京弥が溜息をつく。
「そう説明してもお袋は納得しないだろう。早苗のご両親の土下座については俺がどうにか説得するから、早苗がお袋に謝ってくれれば俺は助かる」
「は? 何それ」
「お前は俺に養われてるんだから、俺の頼みを聞け。とにかく謝れ」
「いやよ」
「相手は目上だ。譲ってやるもんだろう。それに謝ってくれなければ収拾がつかない」
冗談ではない。そんな事実と違う妄想に対して謝る気などない。早苗は何も言わずに立ち上がる。話は終わりだ。
「座れ。話はまだある」
「私にはないわ」
「あのマリコについてだ!」
ドアに向かおうと思って、引いた椅子を戻そうと椅子の背に手を置いた早苗は動きを止める。さっきは今すべきもっと大事な話があるような口ぶりだったが、気が変わったのか。それとも何かあるのか。
「親父も一応患者だ。プライバシーは守られねばならない。対応した看護師たちには、親父の醜態を広めないように釘を刺しておいた。マリコという名が噂されることはないだろう」
医療関係者でない上に反抗的な早苗には口止めが必要そうだから、詳しく話そうという気になったということか。早苗はその場に立ったまま話を聞き続ける。
「お袋の言う通りなら早苗の知っている話だと思うが」
京弥が話し出した。まだそれを言いたいのか。早苗はがっかりする一方で腹が立つ。
「マリコはハセガワマリコという」
それは知っています、長谷川鞠子でしょ、お義父さんの親戚の長谷川家のお嬢さんでしょ。早苗は心の中で馬鹿にしながらそう考えた。
「子どもの頃の父の面倒を見てくれていた人だ」
早苗は出そうになった『え?』という声を呑み込んだ。ここで声を出したらマリコについて何か知っていると疑われてしまう。京一郎との会話で気を使っていたお陰か口を開かなかった。
マリコは長谷川家の娘で、京一郎と同じ小学校へ通っていたらしき、あの写真の女の子ではないのか。その姿から思うに京一郎と同じ年頃の子だっただろう。その子が京一郎の面倒を見ていた? ませた、しっかりした子だったのだろうか。でもそういえば最初、京一郎はマリコをお母さんと言っていた。
「俺の父方の祖父母は人の紹介で結婚した。しかし祖父は父が生まれたあと好きな女性ができ、祖母と離婚しその女性と再婚した。離婚の一番の原因は祖母の性格だと聞いている。祖母は四人兄弟の末っ子で唯一の女の子。家がとても裕福だったのと俺の曾祖母が甘やかして育てたせいで、金遣いが荒いわがままな人だった。それで祖父が愛想をつかして、別の女性の元へ行ってしまった」
京一郎に腹違いの兄弟がいることは結婚後に教えてもらった。郁の性格に問題があったことも、院長室にあった手紙から知っている。
「追い出された祖母は父を連れて実家に戻った。しかし実家は祖母の兄の家族が同居している上に頼みの曾祖母は亡くなっていて、曾祖父は子連れのわがままな出戻り娘を受け入れようとはしなかった」
そういえば郁は実家から嫌われていた。
「そうすると祖母は今後、一人で子育てをしなければならない。祖母は自力で生活費を稼がねばならないのに、お嬢様育ちの祖母は一切働いたことがない。そこで祖母が生活に困らないように手に職をつけさせよう、仕事を覚えさせよう、と申し出てくれたのが、曾祖母の実家の長谷川家だった」
長谷川家は郁の母の実家だったのだと、早苗の頭の中で手紙から得た情報が繋がった。
「曾祖母が甘やかしたせいで祖母の自己中な性格が出来上がった。曾祖母の実家は曾祖母の歪んだ子育てに責任を感じたようだ。真面目に働くことを条件に、長谷川家は祖母と父の親子を引き取ってくれた」
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