52.入院の理由
「ありがとうございます。病室に荷物を取りに行っても大丈夫でしょうか」
「はい、大丈夫ですよ」
吉田は「では」と言って、内科外来の診察室の中へと入って行った。立ち上がった早苗はエレベーターへと向かう。まずは京一郎の様子を見てから、京弥の様子を見に行こうと思った。
京一郎の病室に着くと病室はすでに掃除され、いつもの状態に戻っていた。ただ京一郎は車椅子ではなくベッドの上にいる。ベッドを起こして背凭れにして座り、両手で包むようにしてテルテル坊主が乗った座布団を手にしていた。赤いアルバムも床頭台のカウンターの上にのせられている。多分、日頃この病室内を見慣れている看護師の誰かが、ゴミと持ち物を区別して、片付けてくれたのだろう。
「あの」
ぼんやりと正面を見て座る京一郎に声をかけてみた。京一郎はいつも通りの無反応。
「あの」
今度はベッドサイドに近づいてから声をかけた。そこでやっと京一郎はゆっくりと首を回し、早苗の顔を見る。
「おはよう、マリコさん」
京一郎はにっこりと笑った。
「……おはようございます」
今朝、今初めて会ったみたいに、あの騒ぎはなかったみたいに、京一郎は普通に挨拶する。どう話しかけようかと言葉選びを困っていた早苗は、その普通過ぎる態度に一瞬戸惑ったが。だがすぐに切り替えて挨拶を返した。この様子では、京一郎はこの部屋での先ほどの出来事を、きれいさっぱり忘れているのだろう。
「今朝は用事が多くて遅くなりました。すみません」
「でも来てくれた」
京一郎は笑顔のままだ。しかもいつも以上にご機嫌な気がする。今日の笑顔は少し不気味だ。
「今日はご機嫌がよろしいのですね」
「マリコさんがいればいつだって機嫌がいいよ」
早苗はいつもと同じような行動、片付けや洗濯物回収をすると、京一郎を見る。
「今日は急ぎの用事があるので、もう帰ります。慌ただしくてすみません。またあとで来ますね」
「ああ、待っているよ」
早苗は軽く頭を下げると出入り口へ向かう。廊下に出る前にもう一度京一郎を見ると、京一郎は早苗の方を見ていて、相変わらずニコニコと微笑んでいた。
その後、京弥と弥栄子の部屋を覗きに行ったが、二人とも検査に行っていなかった。早苗は二人と顔を合わせずにすんでホッとした。そして二人の入院用の荷物を準備するために、そそくさと自宅へ戻った。
今日は一日疲れたなと思う。やることが一杯で頭がパンクしそうだった。今は夜。全てが終わってやっと休める。早苗はリビングのソファに浅く座り、だらしなく背凭れに体を預けて、天井を眺めていた。
『お父さんとお祖母ちゃんが入院したの』
早苗は夕方車で帰宅した亮弥に、家の中に入ってからそう告げた。いくら反抗的な思春期とはいえ、さすがに驚いた顔をするだろうと早苗は予想していたのだが、亮弥はいつもと同じ無表情のままだった。
お父さんは階段から落ちて怪我をしたの、お祖母ちゃんも今日はお祖父ちゃんのお見舞いに来ていて、お父さんが怪我するのを見て具合悪くなっちゃったの。
だから二人は入院したのだと、全くの噓を亮弥に話そうとして、早苗は躊躇った。亮弥はこの嘘に納得してくれるだろうか。納得しなければ、亮弥はもっと大人たちから離れていく気がする。転んだ、階段から落ちた、昔から怪我の原因を誤魔化す時のベタな嘘ではないか。
亮弥は無表情で早苗を見ている。日頃ならすぐに自室へ閉じこもってしまう彼が、立ち去らずに立ち止まっているということは、早苗の続きの言葉を待ってくれているのだと、早苗は思った。
『今日お祖母ちゃんがお祖父ちゃんのお見舞いに行って、話のよく通じないお祖父ちゃんがお父さんやお祖母ちゃんともめてね、押されたお父さんが転んで顔を酷くぶつけたの。それを見たお祖母ちゃんも具合悪くなって、それで二人とも入院したの。でも二人とも大したことなくて、明日には退院してくるわ』
弥栄子は血圧が上がったらしいが、検査の結果、怪我は頭の瘤と腕の打撲の内出血程度で済んだ。京弥はレントゲン以外にもいくつか検査をして、頭も顔も肋骨もその他も異常はなかった。運よく全てただの打撲ですんだ。しかし殴られた顔は、右頬と鼻の周辺が歪に腫れていて、別人のような悲惨な顔になっていた。明日はもっと腫れているかもしれない。それでその顔を明日亮弥が見たら怪我の経緯を説明せねばならない。
さすがに子ども相手に京一郎の行動を包み隠さず説明はできない。でも少しだけ真実を混ぜれば、納得してくれるかもしれない。京一郎は怒り手が出た。曖昧だが、もめた、押された、という表現でいいだろうと思った。
ただ弥栄子や京弥は、早苗が亮弥を適当に胡麻化さなかったことをのちのち怒るだろう。まぁ、今さら罪状が一つくらい増えたって、早苗にとってはどうということはないのだが。
説明を聞いた亮弥は無表情だ。何を考えているのかわからない。扱いに困る。何か言ってくれるか立ち去ってくれと思っていたら。
『お祖父ちゃんがお父さんやお祖母ちゃんともめたのってさ、話が通じないからだけじゃなくて、きっとお父さんと、特にお祖母ちゃんの言動が悪かったんだろう。二人が病気のお祖父ちゃんをそこまで怒らせたんだ』
亮弥は無表情のままそう言ってから、廊下を二階への階段へ向かった。だがそのまま階段を上らずに、一段目の直前で立ち止まり振り向いた。
『考査が終わったら、お祖父ちゃんのお見舞いに行くよ』
亮弥は再び早苗に背を向けると、ギシギシと音を立てながら階段を上っていく。階段を一歩一歩上って行くここ一年で大分背が伸びた後ろ姿を、早苗は黙って見送った。
遡って。亮弥を迎えに行く前。衣類や日用品を抱えた早苗は、入院する二人にそれを届けた。京弥は大いびきで寝ていたので、メモを添えて椅子の上に置いてきた。元から疲れるといびきのうるさい人だ。今日は特に疲れているのだろう。
弥栄子は凄かった。早苗を見ると『家族を置いて逃げるなんて!』とか、『あんたが殴られればよかった』とか、『あんたとあの人は南雲家の敵だ!』とか、予想通り罵倒に次ぐ罵倒。大声は病院に迷惑だし弥栄子の血圧がまた上がると思った早苗は、荷物だけ置いてさっさと退散した。
最後に京一郎の部屋に行った。いつもと同じように乾いた洗濯物を届けた。この部屋だけが穏やかな時間が、京一郎とマリコの静かな時間が流れていた。
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