51.内科外来横の椅子
興奮はしていない。一連の出来事はまるで他人事。頭の中はどこかしらけている。弥栄子も京弥も自業自得なのだ。そう思った。
息が落ち着いたので立ち上がり、フラフラと通路を内科外来の方へ向かう。まだ朝早いので沢山の患者が待合室のソファに座っている。早苗は内科外来でも一番会計近くにある、一つだけポツンと置かれた、座席が足りない時用らしい丸椅子に座った。朝早い時間帯の病院の空気。随分と時間が経過した気がしているが、ここへ着いてからまだ一時間と経っていないのだ。
ショルダーバッグを病室に置いてきてしまった。コートも一緒に置いてきた早苗は、薄着で手ぶらだ。財布も車のキーもスマホも、今日は運悪く全てバッグの中。寒いのを我慢して外に出て車に戻っても、車を動かせない。スマホで誰かに連絡もできない。かといって何事もなかったような顔をして、このままエレベーターで京一郎の病室に戻ってもいいものか。
あの時、京一郎は逃げろとマリコに指示した。病室は看護師だらけの大騒ぎで。だから早苗は京一郎のために、マリコとして逃げた。
残してきた弥栄子と京弥が心配では? そう自問してみる。弥栄子は綺麗にセットされていた髪がグチャグチャ、真っ青な顔で床に座って震えていた。この人は特に心配ではない。怪我してようが怯えてようが知ったことではない。早苗をいびるからあんな目に遭ったのだ。
京一郎は早苗をマリコと思っている。弥栄子の偉そうな命令とそれに口答えせずに従う早苗。大好きなマリコが弥栄子に酷い目に遭わされていると、マリコを愛する京一郎の目には映ったのだろう。だから京一郎はマリコを守るために弥栄子と京弥に手を出したのだ。弥栄子の姿を見て早苗は胸がスッとした。ざまぁみろだ。でもそれでは京弥は?
京弥の状態を思い出した早苗は、さすがにあれはまずいなと思った。京弥がやられたのは腹と顔と頭、だったような気がする。
京弥にはまだまだ稼いでもらわなければならない。弥生はあと一年で大学を卒業するが、亮弥にはこれからまだまだ学費がかかるのだから。そう考えると、あんなに暴力を加えられて無事かなと不安になったが……医学部の学費くらいきっと弥栄子が用意しているだろう。いやその前に、亮弥は医者にはならないと言っていた。
しかし自分も酷いものだ。南雲家のことを薄情とは言えない。夫の怪我の心配よりも真っ先に金勘定か。夫婦の愛情なんてとっくにない。自分も南雲家カラーに染まった歪んだ人間になったものだ。それもきっとここに住んで悪意にまみれたせいだ。
早苗は、自分は悪くない、と思う。義父である京一郎を喜ばせるために、マリコのふりして頑張ったのだ、と思う。早苗に責任はない。この騒ぎの元凶は早苗ではなく弥栄子だ。彼女が真面な人間だったらこんな騒ぎは起きなかったのだ。
南雲弥彦先生は地域の医療のために尽力した偉大な医師なのだそうだ。でも早苗が思うに、娘の育て方だけは間違えた。彼女は、自己中でわがままで周囲を見下し、他人に厳しく自分に甘く、人生でできる限り関わりたくない、お嬢様気質の人間だ。ただここに弥彦がいたら、彼の愛娘である彼女の立場は十分それに値すると、すごい剣幕で一喝されそうだが。
とはいえ、今一番心配なのは京弥だ。ここは病院だからすぐに医者が見ただろうが、京弥の怪我の状態が気になる。もうそろそろ病室に戻りたいとは思う。しかし待ち受ける厄介ごとの後処理を考えると憂鬱で、すんなりと腰を上げる気が起きない。
ここ一階は平和だ。今さっき早苗が見てきた、思いやりの欠片もないやり取りから始まった騒ぎとは無関係の、医療機関の日常風景が繰り広げられている。診察を待つ患者。会計を待つ患者。忙しそうに廊下を移動する医療スタッフたち。患者の名前を呼ぶ放送。質問や指示があって人を探すスタッフ。
ここにいる人たちは、京一郎の入院しているフロアで起きている、面白い騒動を知らない。前院長が妻の髪を鷲掴みにして振り回し、院長が前院長から殴る蹴るの暴行を受けたなんて、これっぽっちも考えていないだろう。ここにあるのはいつもの風景。早苗はこの場の空気にどっぷり浸かっていたかった。
京一郎の『逃げろ』に反応してしまったが、家族を見捨てて逃走した早苗を看護師たちはどう思っているか。嫁まで薄情者。さっき早苗もそれを考えた。まさにその通りだ。きっと戻って来た早苗をスタッフたちは白い眼で見るだろう。そこまで考えてふとその前に、自分は果たして南雲家の家族の一人であるのか疑問に思った。
血縁でない嫁という立場の早苗は、きっと彼らにとって家族ではない。以前他人だって京弥から言われた。
やはり病室なんて戻りたくない。早苗を見たら弥栄子は黙っていられないだろう。ヒステリー弥栄子の罵声はうんざりだ。もうしばらく現実逃避がしたかった。
「ここにいましたか」
ぼんやりと人々を眺めながら、まとまりのない思考を頭の中に順繰りと流していた早苗は、そう言う穏やかな声を聞いた。いつの間にか白衣を着た人物が早苗に近づいて来ていた。白衣の下の足元からわかるが男性だ。早苗は顔を上げてそれが誰かを確かめる。
「吉田先生」
早苗の隣に立っているのは、医師の吉田であった。先日英子に痩せろと言った内科医だ。
「丁度僕が近くの病室にいたので、騒ぎのあった病室に呼ばれました」
「そうですか。ありがとうございます」
「驚かれたでしょう。大丈夫ですか?」
早苗はこれまでの、己の非常識な一連の行動をまずは非難されるかと、吉田から投げつけられる冷たい言葉を覚悟して待ち構えていた。しかし吉田の声や口調にそんな冷ややかなものはなく、早苗に対して純粋に気遣いを示してくれているようだった。
早苗は小声で「はい」と答えた。
非日常な事態に遭遇して放心状態の人に、心配して声をかけるのが、人として普通の対応だ。でも早苗は非難されるのが普通と思ってしまっていた。こんな思考回路はいつからだろう。人間不信なのか。心の中が荒んでいる。
「院長先生は意識もしっかりなさって会話もしていますし、自力で立ってもいらっしゃいましたが、レントゲン室へ検査に行っていただきました」
病院関係者以外にはいまだに京一郎を院長先生と呼ぶ者もいるが、医師の吉田が院長と呼ぶのは京弥だろう。
「前院長夫人は体に数か所の打撲があるのと酷い興奮状態なので、一応入院して様子を見ることになりました」
「そうですか」
弥栄子のことなどどうでもいい。関心がない。弥栄子がらみで関心があるとしたら、それは早苗自身の扱われ方についてだけ。これから弥栄子に一方的に罵声を浴びせられるだろう自分が、夫からも庇ってもらえないだろう自分が、とてもかわいそうなだけだ。
「京一郎先生はあなたが病室を出たあとすぐに大人しくなり、今も落ち着いています」
マリコである早苗が視界から消えたから、京一郎は安心して落ち着いたのだ。早苗にはわかっていた。
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