50.マリコさん、逃げるんだ!
京一郎は弥栄子のセーターの腹部分を掴むと、自分の方へ引っ張った。引っ張られてバランスを崩した弥栄子は、布団の上に上半身を倒れ込ませる。丁度京一郎の腹の辺りだ。
「何すんのよ!」
弥栄子は抗議の声を上げたが、京一郎は何も言い返さない。京一郎は無言のまま掴んでいた服を離すと、今度は弥栄子の前頭部付近の髪の毛を鷲掴みにした。そのまま腕を上げて、弥栄子の頭を引っ張り上げる。ついでのように弥栄子の体も少し起き上がった。
「痛い、痛い、手を離してよ!」
弥栄子は再び声を上げたが京一郎は何も言わず、そのまま弥栄子を床頭台の方向へ引きずりながら勢いをつけて、弥栄子の体を頭から床頭台にぶつけた。
「キャー!」
弥栄子の悲鳴。京一郎は弥栄子の髪の束から手を離さない。そして弥栄子の体を少し引き戻すと、再び弥栄子を床頭台にぶつけた。カウンター上のティッシュ箱が滑り落ち、床頭台の位置も何センチかずれた。
思わぬ事態に遭遇した早苗は、呆気にとられて声も出ない。京一郎と弥栄子の様子を、映画かドラマのワンシーンを見ているかのように、ただ呆然と見てしまっていた。
「助けて! 京弥! キャー!」
京弥も呆然としてしまっていたのだろう。弥栄子に呼ばれてから、やっとというように体を動かした。
「親父、何やってんだ!」
京弥は弥栄子に駆け寄り、弥栄子の髪を掴む京一郎の手首を左手で掴んで動かせないようにし、右手で京一郎の指を広げて髪を放させようとした。
「お前もか」
京一郎はボソッと言うと、京弥の腹に布団ごと蹴りを入れた。
「う……」
布団が床にずり落ちる。京一郎の蹴りはドンという大きな音を立て決まり、京弥は呻いて前屈みになり両手で腹を押さえる。
「早苗! ダレカヲ、ヨンデ、キテクレ!」
京弥の声が早苗の耳に届く。しかし早苗に京弥の声は聞こえていても、言葉の意味が脳には届いていなかった。今の早苗にとってそれは意味をなさないただの音でしかなかった。
弥栄子を振り回し、京弥に蹴りを入れる。早苗は介護が必要なほどの京一郎にこんな力があるとは思いもしなかった。さすが男性というべきか、それとも火事場の馬鹿力的な奇跡か何かか。その京一郎のあり得ない力強さを、早苗はただただ感心して熱心に観察してしまった。
お義父さん凄い。喧嘩したら案外強いかも? 実は元はジムとかで体を鍛えていたとか? 若い頃、武道を齧ったことがあるとか?
身長は京一郎が百七十センチ、京弥は百七十五センチほどか。今の京一郎は動かずにかなり痩せてしまったが、肩幅や胸板の厚みなどの大本の骨格は京一郎の方が京弥よりもずっと逞しい。京弥は華奢な弥栄子の方に体格が似たのかもしれない。そんな風に淡々と、騒ぎを起こしている目の前の親子三人の分析をしていたら。
「早苗!」
京弥の声がした直後、京一郎の左フックが京弥の顔面に決まった。
京弥の体は左後方に吹っ飛び、後頭部から窓ガラスに叩きつけられた。そのまま窓下の壁に寄りかかって座るようにして、床の上に崩れ落ちる。京弥を殴るために髪の毛から手を離してもらえた弥栄子は、多分床頭台にぶつけられた部分の、痛む右側頭部を右手で押さえ、左腕を右脇腹に回して腹全体を庇うようにして、床頭台の前にしゃがみこんでいた。そして果敢にも京一郎を睨みながら、でも体はブルブルと震えている。京一郎は再び弥栄子に左手を伸ばすが、弥栄子はその手から逃れるように、壁に沿って尻でずりながら移動した。そして弥栄子が京弥のすぐ横まで来た時。
「どうしましたか!」
早苗が呼びに行く必要もなく、悲鳴や騒ぎが聞こえたらしい看護師たちが、わらわらと病室に入って来た。
「助けて! この人が、この人が暴れるのよ!」
京一郎は移動して手が届かなくなった弥栄子に向かって、なおもベッド上をお尻でずるように体を移動させて行く。
「この人を大人しくさせて! 私たちが殺される!」
看護師たちに向けて弥栄子が、必死の形相で訴えた。京弥は大量の鼻血を出しているようで、シャツの首元と白衣の胸元が真っ赤だった。両手で鼻と口を包むように顔を覆っている。その両手の指の間からも血がたれている。京弥は目を開けていて、意識はあるようだが服の胸元は血まみれで、言葉は何も発さなかった。
看護師たちが京一郎の体を押さえて、弥栄子の方へ行かせないようにする。
「離せ! 邪魔をするな!」
京一郎は暴れる。女性看護師一人が吹っ飛ばされて床に尻もちをつく。別の看護師がナースコールを鳴らした。廊下で応援を頼む声も聞こえる。すぐに若い男性看護師数人が病室へ入って来た。
「逃げろ! マリコさん! 逃げるんだ!」
ぼんやりと病室内を観察していた早苗は、マリコという名前を聞いて我に返る。
「燃やされる! 捨てられる! 逃げるんだ! マリコさん!」
自分はマリコではない。でも京一郎の頭の中ではきっとマリコなのだ。京一郎の言っている『捨てられる』という意味はわかる。『燃やされる』という意味はよくわからないが、きっと自分はここにいてはいけない。京一郎を心配させてしまう。きっと京一郎は必死に抵抗して、マリコが逃げる時間を稼いでくれているのだ。
「マリコさん!」
京一郎の周りに次々と看護師が集まる。弥栄子と京弥にも看護師が話しかけている。早苗は後ずさりをした。ゆっくりと、一歩ずつ入り口へ向かって後退する。そして後ろ向きに一歩廊下に出るとすぐに体を翻し、一目散に階段に向かって廊下を駆けた。エレベーターなんて待っていられない。すぐにここから離れるのだ。早苗は廊下を走った。
次に階段を駆け下りた。階段途中で何度も足が滑って、仰向けに滑り落ちそうになりながらも手摺を掴んで踏ん張り、なんとか体勢を立て直して下り続けた。そしてついに最後の一段を下りて一階に着くと、早苗はその場で立ち止まってしゃがんだ。
息が切れていた。階段は下りだしこの程度の距離なのに、凄く疲れたと思う。息を整えるために深呼吸をした。鼻から息を吸って口から吐き出す。そんな単純な行動をなん回も繰り返した。
読んでくださってありがとうございました<(__)>




