5.亮弥の事情
「亮弥?」
京一郎はその名前を口にして何を感じたのか、急に早苗の隣の何もない空間に視線をずらした。そしてそのまま焦点の合っていないような、ぼんやりとした目つきになった。
「亮弥……亮弥……亮弥」
京一郎は孫の名前をブツブツと小声で繰り返しながら、今度は窓の方を向いた。
「孫の亮弥です」
京一郎がどう反応するかわからないが、早苗は一応教えてみた。
「ああ、亮弥か」
京一郎は亮弥が誰だかわかったかのような言葉を発した。亮弥という名を聞いたあとの表情に、特に変化はない。不機嫌になったようにも見えない。相変わらず窓の外を見てはいるが。
「亮弥がもう帰って来るのか?」
亮弥が帰宅する時間は、いつもはもっと遅い。それをわかっていて聞いてきているなら、亮弥が誰なのか、いつ帰って来るのかを、理解をして会話をしているのだろう。
「ええ。いつもはもっと遅いんですけど、今は入試期間中なので、学校が休みだったり帰宅が早かったりするんです」
「入試? ああ、そうか。入試か」
京一郎は納得したというようなことを言った。
「駅へ行くのだろう。運転、気をつけなさい」
「ありがとうございます」
最後だけ、舅と嫁の真面な会話となった。早苗はそそくさとドアの方へ向かう。廊下に出る直前に立ち止まって振り向き、京一郎を見た。車椅子に座った京一郎は同じ位置で、真っすぐに窓の外を見ていた。
車に戻った早苗は運転席に乗り込むと、ドアを強めに閉めた。バン、という大きな音がして、車内の空気が振動する。駐車場には車は数台停まっているが、人は誰もいない。誰にも見られていないならばいいやと、自分がこんな場所にいなければならない腹立ちを、手近にある車のドアにあたった。早苗はエンジンをかけた車を、最寄りの新幹線の停車駅に向けて出発させた。
病院の駐車場を出て一キロほど走ると、頭が冷えてきた。冷静になってみれば、車にあたるなんて馬鹿みたいだとわかる。しかしそれほどまでに、この送迎にはストレスを感じていたのだ。
早苗がこの土地へ引っ越してきたのは昨年のことだ。それまで早苗と京弥と亮弥は都内のマンションで暮らしていた。医師である京弥は勤務医として都内の病院に勤めていたし、亮弥は近所の区立小学校へ通っていた。亮弥の同級生たちは私立中学の受験のために有名学習塾へ通う子どもが多かったし、早苗も中学受験は当然と思って、小学校から帰宅した亮弥を塾へ通わせていた。
小学校高学年になった亮弥は塾で、最上位ではないが成績上位者が入るクラスに入っていた。このままの成績ならこの程度の偏差値の中学校が狙えると、面談時に塾教師がいくつか学校名を挙げてくれた。将来を考えると悪くはない学校名が並び、本人も頑張りが実になることを喜んでいた。そんな時だった。弥栄子から京一郎が倒れたと聞かされたのは。
『親が倒れたのよ。地元へ帰って来てちょうだい』
弥栄子の話は一方的で、息子夫婦が実家へ戻るのは当たり前との古い考えを押しつけてきた。
『亮弥はこっちで公立の学校へ通えばいいじゃない。ここだって日本なんだから、中学だって高校だってあるわよ』
それでは、なん年も努力をしてきた亮弥がかわいそうだ。
そして結局こうするしかないし、こうなってしまった。都内の中学に通いたいなら新幹線通学しかないのだ。
スピードを出している車は交差点で急ブレーキをかけた直後曲がり、駅のロータリーへ繋がる道に入った。車は直進と急カーブを繰り返し駅へと近づいて行く。その時、駅前の歩道の景色が道のカーブに合わせて流れるように、フロントガラスを横切った。歩道の景色の中に見えたのは、身長百六十センチ強の、細身の十代少年と判別できるシルエットだった。早苗は駅前道路に入るとそのシルエットに車を横づけする。髪が乱れるほどの寒風の中、身を縮めてスマホを見ながら一人ポツンと立つその少年は、やはり亮弥だった。
「入試の日さ、学校休みだから、飯塚の家に遊びに行っていい?」
車を発進させるとすぐに亮弥は早苗に話しかけてきた。
「飯塚? あの登校が一緒の飯塚君?」
「うん」
亮弥には毎朝この駅の改札で待ち合わせる同級生がいた。飯塚淳也(いいづかじゅんや)という名の子だ。この駅の利用者は亮弥以外いないだろうと思っていたのだが、ラッキーなことに飯塚もこの駅まで車で送迎してもらう、この駅からの新幹線通学者だった。新幹線の改札を二人で入ると、そのまま学校へ着くまで一緒だった。クラスも一緒だ。
亮弥の話では、二人は気が合ったようだし、車内で雑談したりして楽しく登校しているようだった。下校まで一緒だと親としては安心なのだが、残念ながら飯塚はスキー部で亮弥は卓球部。部活の曜日の関係で、一緒に帰宅できる日は週二日と限られていた。
「別にいいわよ。飯塚君のお宅に迷惑かけないように過ごしなさい」
「わかっているよ。一緒にゲームするだけだよ」
信号待ちで後部座席の亮弥を見ると、何を見ているのか、亮弥はスマホに見入っている。しかし早苗が振り向いて後ろを覗き込む動きを感じたのか、亮弥の視線が少しだけ上を向いた。
「飯塚んちには、晴れてれば自転車で、雨なら歩いて行く」
亮弥はそれだけ言うと、再び視線をスマホに落とした。
「え? 自転車にしても歩くにしても遠いじゃない。車で送ってあげるわよ」
早苗は言ってから正面を向くと信号機を見る。まだ赤い。
「いい」
「時間がもったいないでしょう。それに危ないから」
「気をつけるし、すぐ着くから」
信号が青に変わった。早苗は車を発進させる。
「自転車や徒歩はやめなさい」
この辺は、地元中高校生の通学か街道沿いの店舗への買い出しくらいしか自転車を見かけないし、道を歩く人などほとんど見ない。
「別にいいのに」
亮弥は溜息をついた。
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