49.最低
病室内を気にするようになった早苗が毎朝見る光景から推測すると、京一郎は夜、床頭台のカウンターの上に座布団を敷いて、その上にテルテル坊主をのせてから寝ているようだ。そして昼間はよく見えるように、床頭台のテーブル上の奥隅に移動させているのではないか。早苗が無関心な時期に見たことで、しかも記憶力のよくない早苗の病室内の物の記憶は、壊滅的にあやふやだ。今となって思うとあの木箱も常にテーブル上にあったわけではなく、そうやって毎日京一郎が移動させていた可能性が高そうだ。
今、床頭台のカウンターを覗き込んで、まだ移動してないそれを発見した弥栄子には、早苗が作った不格好なテルテル坊主がただの放置されたティッシュゴミに見えたのだろう。当初予定した三つと違う言葉になってしまうが。
「お義母さん、それは!」
早苗が声をかけても、聞こえているのかいないのか弥栄子はなんの返事もせず、二本の指を離してゴミ箱の中にテルテル坊主を落とした。テルテル坊主は重力に従い、音もなくゴミ箱に吸い込まれた。その瞬間、早苗は息を呑む。しかし弥栄子は早苗や京一郎を気にする様子もなく、再び床頭台のそばに戻りカウンターを覗き込む。
「あら、そんな物もあったの? その薄汚い布も捨てるわね」
弥栄子は床頭台のカウンターに手を伸ばす。そして弥栄子の右手がテルテル坊主同様汚い物を持つように摘まみ上げたのは、早苗が作った座布団だった。本体を触りたくないとでもいうように、四隅の房の一つを摘まんでいる。座布団もテルテル坊主の時と同じ動きで、弥栄子によりゴミ箱に投下された。早苗は京一郎が大丈夫か心配で表情を見ようと思ったが、そうする前に廊下を歩くコツコツという足音が耳に届いた。誰かが病室に近づいてくる。
「おい、そこに立っていたら部屋に入れないだろう。邪魔だよ」
早苗は廊下へ、声をした方へと顔を向ける。早苗は、自分では気づかぬうちに、洗面台から病室の入り口の方へ移動していた。それで早苗の体が病室の入り口を塞いでいたのだ。廊下から病室へ入れないからか、文句を言ったその人物・京弥はムッとした表情をしている。
京弥は今朝、今日初めて平日の朝に訪問する弥栄子が心配だから、少し様子を見に寄ると言っていた。母に優しい孝行息子の彼の当然の行動だった。
早苗は無言で体をずらした。京弥は病室に入ると、どんどんと京一郎の方へ歩いていく。そこでやっと早苗はベッド上の京一郎を見た。京一郎は下を向いていた。顔は無表情に見えるが掛布団の上に出された左手はこぶしを作り、しかもそれは小刻みに震えている。
怒っている。
早苗はそう思った。京一郎は怒っていると。マリコと作ったテルテル坊主を捨てられ、マリコがくれた座布団を捨てられ、京一郎は怒っていると。京一郎は言っていた。マリコの思い出は捨てられたと。そして今、新たにできた思い出たちも、汚い物のように指で摘ままれてゴミ箱に落とされた。
「捨てるんだな」
京一郎は低い小声で言った。たとえ低い小声であっても、早苗にははっきりと聞こえた。それなのに、早苗よりも京一郎のそばにいる弥栄子も京弥もそれに関して何も言わない。
聞こえない? 無視している?
早苗にはわからない。
「早苗さん、こういうゴミを置いておかないで。昨日もあったんじゃないの? 汚らしい。ちゃんと毎日見ているの?」
「早苗は何ぼさっと突っ立っているんだ? コップを洗うんじゃないのか?」
誰も京一郎の言葉を聞いていない。京一郎を見ていない。
「マリコさんの物は捨てるんだな」
再度京一郎の声。低くて抑揚のない声。早苗は嫌な予感がした。
「マリコ?」
そう言って、今日初めて弥栄子がちゃんと京一郎を見た。
「マリコだって?」
今度は弥栄子が憎々しげに、日頃よりも低い声で言った。
「いまだにあの女の名前を言うのか!」
いつも気取っていてお嬢様然とした弥栄子の口調が、突然荒々しくなる。そして弥栄子はハッとしたような顔をすると、ベッドの上の京一郎の足元近くに置かれている、赤い表紙のアルバムに目を落とした。
「これは……」
そう一言だけ言って絶句したような状態になった弥栄子は、据わった目になり京一郎を睨む。しかしその恐ろしい視線の先はすぐに早苗に変えられた。
「この間の汚い木箱は捨てるだけで済ませたの! その時はこの人に持ってくるように頼まれただけだと思って、早苗さん、あなたには何も言わなかったのよ! でもそのあとこんな計画を立てるなんて! 早苗さん! あなたなんて性格が悪いの!」
京一郎の元へ行こうとしていた京弥は、早苗と京一郎のベッドの丁度中間地点で立ち止まった。そして早苗と弥栄子を、戸惑った顔とオドオドした様子で、首を左右に回して見比べる。多分、何の話をしているのか京弥はわかっていないのだ。さらにどちらかに説明して欲しいのかもしれない。
「木箱もこれも、もっともっと以前に処分しておくべきだった」
弥栄子はアルバムを掴むと、ゴミ箱に叩きつけるように投げ込んだ。ガコン、という凄い音とともにゴミ箱がすっ倒れ、磨かれた床の上をコロコロ転がる。ゴミ箱は中身を床にぶちまけながら、京弥の足元の方まで転がってきた。
「散らかったから片付けて。ハァ、ハァ、最低人間のあなたの仕事よ」
怒りで興奮しているのか荒れた息のまま言う弥栄子は、目を剥き出して早苗を睨む。
「はい」
恐ろしい目を向ける弥栄子に、早苗は歯向かう気はない。濡れた手をタオルで拭くと返事だけしてゴミ箱へ向かう。まずは転がっているゴミ箱を立てないと。
京弥は相変わらず戸惑い顔で、弥栄子を見たり早苗を見たりして、首を動かしている。やはり説明して欲しいのだ。しかし早苗を見られても困る。早苗は、マリコはあの写真の少女と予想をしただけで、それが正しいのかわからない。それにマリコに会ったこともなければ、どんな人なのか詳しく聞いたこともない。だからなぜ弥栄子があんなに怒るのか京弥にちゃんと説明できない。
説明できるとしたら弥栄子だけなのだが、その弥栄子は怒っているだけで、マリコについて語る気はないようだ。京一郎はどうしているかとチラリと見てみると、相変わらず左手のきつく握ったこぶしが震えていて、その握り締め過ぎて白くなったこぶしに視線が向いていた。
早苗はゴミ箱のそばの床に跪くと、まずはゴミ箱を立てる。それからその中に散らばったゴミを一つずつ拾い、入れ始めた。弥栄子も京弥も京一郎も、誰も何も言わない。下を向いているからわからないが、きっと弥栄子は怒りが治まっていないだろう。早苗を睨みつけているに違いない。
夫の京弥はどうしているのだろう。彼のことだから、何が起こっているのかわからないから、戸惑った顔のままで早苗を見下ろしているのだろう。早苗を手伝うこともなく、早苗を庇うこともせず、もし何かこれから言うとしたら弥栄子のために早苗を非難する言葉か。そして京弥はただひたすらあそこで待っている。大事な母・弥栄子の、怒りという嵐が治まるのを。
早苗はほぼ全部のゴミをゴミ箱に戻した。床の上に残っているのは、テルテル坊主と座布団と赤い表紙のアルバム。
「最低なのはお前だ! 人間として、マリコさんの足元にも及ばない!」
京一郎の怒鳴り声がした。早苗は驚いて顔を上げ、京一郎を見た。京一郎はベッドの横に立つ弥栄子に左手を伸ばしていた。
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