48.ゴミ
「信じられないわ! きっとあの人の病室のある階の看護師の仕業ね! 南雲家にこんな恥をかかせる職員がいるのなら、見つけて謝らせるべきよ! 全く……」
医療従事者を雇うのが大変な昨今、働いてくださるだけありがたいのに。そんな大ごとにしたら、下手したら辞められてしまう。それに証拠もないのにどうやって探すのか。
と早苗は一人憂う。
実際に弥栄子は滅多に病室に現れないのだから、京弥から聞いた噂話の内容は間違ってはいない。弥栄子は自分が病院にかかる日であっても京一郎の病室には寄らないくらい、行かないということに関して徹底している。ただ弥栄子の思考回路では、自分は特別なのだから京一郎に対してどう振舞おうが、非難されるいわれはないと思っているのだろう。
しかし世間一般ではそんな夫婦はおかしいし、そういう状況を発見したら、ここぞとばかりに叩いて周囲に触れ回る人間だっている。そんな、ある意味他人にとってはとっても楽しいお話を耳にした人たちは、家に帰れば即行家族に広める。その家族は外に出ればさらに広める。
お嬢様の弥栄子は特別扱いされるべきだし、感謝されるべきだし、敬われるべき。それなのに皆京一郎の味方で、噂は弥栄子の悪口として広められているのだから、プライドの高い弥栄子としては腹立たしいに違いない。
「……南雲家を、私を馬鹿にして! ……」
赤信号で車が止まった。助手席にいる弥栄子の怒り声がダイレクトに頭に響く。唇を震わせながら話す弥栄子の口の動きは止まらず、ギャーギャーと喚いている。ああ、唇上下を縫いつけたい。
「まさか早苗さん、あなたが言いふらしたんじゃないわよね!」
疑いが早苗に向いた。
さて、どうだろう。環にこぼしただろうか。忘れた。
スーパーや病院で会う他の誰かにも。言ったかもしれないし、言ってないかもしれない。
「そんな話は誰ともしてません」
と早苗は答えておいた。はっきり言って早苗にとってそんなどうでもいい話、したかしないかなんて覚えてないのだ。それに今まで悪意のある噂にならなかっただけで、皆なんとなく弥栄子の行動を気づいていたのではないか。今回偶々、悪口としてどこかから広まっただけで。
信号が青に変わった。車を発進させる。弥栄子は相変わらず喚いている。運転に集中したい早苗は、それに対していい加減な相槌だけ打っていた。
いいお天気の朝。早苗は弥栄子の数歩後ろをつき従うように歩く。病院の玄関を入ると弥栄子は、顔見知りや病院スタッフに挨拶を返しながら、堂々とエレベーターへ向かっていった。早苗一人の時は、朝はもう二十分ほど遅く病院へとやって来る。弥栄子が待ちきれずにこうなったのだ。たとえ二十分でも生活の、特に午前のペースを乱されるのはストレスだ。これから何日おきかにこうして気を使った訪問になるのかと思うと、早苗は噂を面白おかしく広めた者たちを、余計なことをしてくれたものだと恨めしく思った。
エレベーターを降りると、京一郎の部屋までの途中にナースステーションがある。早苗はいつもそこでスタッフに挨拶をして、訪問者名簿に一応名前を書く。しかし弥栄子は「見舞いに来たから」と中に向かって軽く声だけかけて素通り。早苗だけ立ち止まり、急いで弥栄子と早苗の名前を書いて弥栄子のあとを追った。が、もう廊下に弥栄子の姿はない。日頃、膝が痛い腰が痛いと大騒ぎする割には随分と足が速くて、早苗は廊下を歩きながら感心して鼻で笑った。
早苗が京一郎の部屋に入ると、弥栄子はすでに京一郎のベッドの横に立っていて、キョロキョロと周囲を見まわしていた。京一郎はベッドの頭側を少し起こし座っていた。弥栄子には興味がなさそうで、いつも通りの京一郎のぼんやり顔が見えた。
「おはようございます」
声をかけても振り向いての反応はない。これもいつも通り。弥栄子は床頭台のテーブルを覗き込んだり、収納や引き出しを開けて中を覗いてみたり、落ち着きなく確認しまくっている。早苗の至らない部分でも探し出して文句を言いたいのかもしれない。とにかく今日の弥栄子は特別機嫌が悪いから、何を言われても三つの言葉だけ答えようと早苗は思っていた。
以前かなり不機嫌な時、弥栄子は言っていた。『あなたの口から出る言葉は三つだけで十分。はい、すみません、ありがとうございます。この三つ! それ以外は不快なだけ! それから、あなたが最もしなきゃいけないことは、『立つより返事』ね!』
声をかけられれば返事はしているつもりだが、早苗はほとんど返事をしないと言って弥栄子は怒る。弥栄子は早苗のことが嫌いだ。嫌いな者の声はたとえ聞こえても、聞こえないふりをして嫌がらせをしているだけなのだろう。それなのに『それともあなたが返事できないのは、私の声が聞こえてないからかしら? 耳が悪いなら耳鼻科にかかれば?』などと平然と言うのだ。
「夜に使ったの? コップを洗ってちょうだい」
「はい」
床頭台のテーブルの上に出ているコップを手に取ると、弥栄子は早苗に向かって突き出した。ボーっとはしていられない。そしてこれも弥栄子の中では、失礼な嫁の早苗は返事をしなかった、に変換されている気がしていた。
椅子に荷物を置いた早苗は急ぎ足で弥栄子に近寄る。
「急がないで、病院内よ、迷惑で見苦しい」
「すみません」
だからと言って急がないと『遅い』と怒るくせにと思いながら、早苗はコップを受け取った。弥栄子は次にカウンター内を覗き込んでいる。早苗はコップを洗うため二人に背を向け洗面に向かった。
洗面に着くと蛇口をひねり、まずはコップの中に水を入れゆすぐ。
「何をするんだ!」
京一郎の大声が聞こえた。
「まぁ珍しい、喋ったわ」
弥栄子が驚いたような、感心したような、そんな声で言った。
「これを見なさい! あなたが溜め込んでるゴミを捨てるのよ!」
次に聞こえてきたのは弥栄子の大声。京一郎も大声だったし、大声での応酬は、これはこれで迷惑だし何事だろうと思った早苗は、コップを洗面台に置いて自分の後ろにいる二人を見た。
「ゴミじゃない!」
「あなたボケてんのよ。これはゴミっていうの! ゴ! ミ!」
早苗の目に飛び込んできた光景。
弥栄子はまるで汚い物でも持つように、ティッシュの塊を右手の親指と人差し指で摘まんでいる。よく見るとそれはあのテルテル坊主で、弥栄子はその丸みのある頭を摘まんでベッドサイドのゴミ箱の横に立っていた。弥栄子はまさに今、それをゴミ箱の中に落とそうとしている。
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