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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
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46.読まれない手紙

 廊下には誰もいない。廊下の突き当りの窓から入る午後の日差しが、廊下の床全体を明るく照らしている。その日差しの優しい暖かさを背中で感じながら、早苗は院長室へと続く廊下を一人歩いていた。

 院長室に入ると今日は、まっすぐに執務机に向かった。机の上に埃が積もってはいないが、窓は相変わらず掃除された形跡がない。窓ガラスの表面はうっすらと埃をまとい、網戸との隙間にゴミが挟まっているままだった。そしてその向こうに桐の蕾が見える。


 早苗は執務机の例の引き出しの鍵穴に、鍵を差し込み回す。カチャリと軽い音がして鍵が開いた。引き出しをゆっくりと引くと、中が徐々に見えてくる。京弥が引き出しの鍵を持っていて開けて中を触ったかはわからないが、何か以前とは違うわかりやすい変化でもあるだろうか。

 これ以上引けなくなるまで引き出すと、中の全体を見る。そこには当然あの箱はない。そして紙が入っていたような気がしたという早苗の記憶は、完全にではないが当たっていた。そこには一冊の便箋とペンが入っていた。ただ、早苗が紙と前回認識した物がこの便箋で間違いないかと聞かれたら、そうだと確信を持って言えないが。一方のペンの方は全く記憶にない。

 便箋は『便箋』と真ん中に書かれた青い表紙のついた、厚みから推測して用紙がまだ三分の一くらい残っている、便箋一冊。ペンは本体の表面が黒色で、ヨーロッパの有名メーカーの名前が刻まれている。ペンの蓋を開けてみると、ペン先のデザインが美しい高価そうな万年筆だった。


 他にも何かないかとガサガサと中を漁ってみたが、引き出しに入っていたのはその二つだけだった。早苗は便箋と万年筆を、執務机の上に並べて置いた。


 京一郎はなぜただの便箋を鍵のかかる引き出しになど入れたのか。万年筆の方は鍵をかけて保管しなければならないほど高価で貴重な品なのか。早苗は便箋を執務机の上に置いたまま、表紙をぱらりと捲った。


「え!」


 早苗は縦書き罫線のある便箋の一ページ目を見るなり、そんな声をあげてしまった。それから息を吞む。


「そんな」


 一ページ目には何も文章は書かれていなかった。白紙同然だった。しかし最初の一行目に、この六文字だけ書かれていた。それは。


『長谷川鞠子様』


 長谷川。長谷川。長谷川。

 早苗は聞いたことのある苗字だと思った。最近どこかで耳にしたような。早苗は今まで調べたことをメモ帳にまとめてあった。帰宅してから見聞きしたことを思い出して書いたり、手紙の内容をまとめたり、次の行動や思考を書き記したり。あのペンケース・輪ゴム・メモ帳セットのメモ帳はそうやって活躍させていた。早苗はメモ帳を確認する。最近調べた人たちの名前は。

 あった! 長谷川は郁の働く親戚の家の苗字であった。それではマリコとは長谷川家の娘なのだろうか。京一郎と年が近かった? あの写真の少女が実は長谷川家の娘で、長谷川鞠子?

 そして密かにしまわれているこの便箋と万年筆は、マリコに手紙を書くための物だった?


 出だしに相手の名前を書くということは、長谷川鞠子は京一郎にとって堅苦しい挨拶の必要のない、かなり親しい間柄の人だ。

 京一郎は度々マリコと手紙のやり取りをしていたのだろうか。それは単なる親戚同士の近況報告だったのか。まさかラブレターに等しいような内容だったのか。


 引き出しの中に封筒はないし、切手もない。マリコの現住所が書かれているメモや住所録もない。マリコの苗字はわかったが、ここで行き詰った。


 早苗は便箋と万年筆を元通りにしまい、引き出しを閉め、鍵をかける。そして院長室を出た。京一郎の病室へ向かった。





「こんにちは」


 病室に足を踏み入れた早苗は、テルテル坊主を座布団ごと膝にのせ、車椅子で窓辺に佇む京一郎に、大きめの声で挨拶をした。いつも通り京一郎は、振り向きも返事もせず関心を示さない。挨拶は無駄な行為だが、早苗は人のいる部屋に無言で入室したくなかった。


「今日もよく晴れてますね」


 京一郎の隣まで来ると話題を振った。そこでやっと京一郎は隣に立った早苗を見上げる。


「浅間山がよく見える」

「はい」

「雪が解けたらマリコさんを連れて行ってあげるよ」

「はい、楽しみにしてます」

「必ず、晴天にするんだぞ」


 京一郎はテルテル坊主に目を移すと、左手の人差し指でその頭を優しく撫でた。


「京ちゃんは」


 早苗が車椅子の横にしゃがんで話しかけると、京一郎はテルテル坊主を撫でる指を動かし続けながら、顔だけは早苗に向ける。


「手紙を書くのは好きですか?」


 早苗は院長室で見た便箋と万年筆を思い浮かべながら尋ねた。京一郎はマリコに手紙を書いていたはずだから、何か反応が返ってくるかもと期待したのだ。


「手紙? マリコさんに書くのは好きだよ」


 返事を聞いてやはり京一郎は、あの便箋と万年筆でマリコに手紙を書いていたのだと、早苗は確信した。


「沢山書いたんだ。なん枚もなん枚も」


 あの便箋も三分の二は使われていた。きっとあの便箋の前にも別の便箋で、沢山手紙を書いているのだ。


「でもね、一通も出せなかった」

「え?」


 早苗は先日京一郎をがっかりさせてしまって以来気をつけているのに、京一郎の口からさらりと出た思いもしなかった話に、つい声を出してしまった。しかしそれに対して京一郎の表情に変化はなく、何も突っ込んでこない。どうやら早苗の出した声が気になってはいないらしい。


「迷惑をかけてしまうから」


 京一郎はマリコに手紙を書いても出してはいなかった。ただ書いていただけだった。

 京一郎がマリコと手紙のやり取りをしていたのではと想像した下品な思考回路の自分を、早苗は怒鳴りつけてやりたかった。心の中は自分へのそんな怒りの気持ちで一杯であった。京一郎はあれだけ真摯に仕事に取り組む真面目な人間だ。周辺で女性関係の悪い評判を聞いたこともない。既婚者である京一郎が好きな女性だからと、マリコに手紙を出すなどするわけがない。

 早苗は一時でも京一郎をそんな目で見てしまった自分を情けないと思った。


「手紙はどうしたんですか?」


 早苗はそれがどこに保管されているか知りたかったのだが。


「捨てたよ」

「捨て……た?」

「書き終わるとすぐ、シュレッダーにかけるんだ」

「そう……で……すか」


 京一郎は書いた手紙をどんな気持ちでシュレッダーにかけたのか。思いの詰まった心の籠った手紙は決してマリコに読まれることはない。


読んでくださってありがとうございました<(__)>

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