45.捨てられた木箱
早苗は車の助手席に荷物を放り込むと、車には乗り込まず、駐車場内を病院の方向へ走った。
早苗は走りながら考える。床頭台の引き出しや収納の中。コップの出し入れ、ストローやティッシュの補充、タオルや着替えのストック補充。早苗は京一郎の生活スペースの中の、自分が覗いたことのあるあらゆる場所を思い出す。しかしどこにもあの寄木細工の箱を見た記憶がない。院長室に戻してくれと京一郎から頼まれて、受け取った記憶もない。ならばあれは病室にあるはず。京一郎のそばのどこかになければおかしいのだ。
さすがに院内は走れない。人にぶつからないように気をつけながらの速足歩きで、京一郎の病室へと向かう。エレベーターが来るのを待つのももどかしい。やっと来たエレベーターに乗り込むと行先階のボタンを押す。全てにいつも以上の時間がかかっている気がしてしまうが、そんなはずもない。
エレベーターを降りて廊下を行く。開けっぱなしにされている京一郎の病室のドアを、せっかちと言われそうな速さでノックすると同時に、つんのめるように中に飛び込んだ。
「あの」
早苗は先ほどと同じようにベッドの上で五十年誌を見ている京一郎に、声をかけた。思ったよりも大きい声になってしまい、自分の異常な状態に驚いた早苗は、鼻から大きく息を吐きだして、落ち着こうと試みた。
「今朝は二度もマリコさんが来た」
京一郎は老眼鏡をずらして裸眼で早苗を見ると、にっこりと笑う。『あの』の後、『お義父さん』と呼びかけてしまいそうだった早苗は、自分が京一郎にはマリコであることを思い出した。最も大事なそれを忘れるなんて、やはり自分は通常の状態ではない。早苗は今一度自分に言い聞かせる。私はマリコだと。早苗は一歩足を進めるごとにその言葉を頭の中で唱えながら、京一郎のベッドサイドに移動した。
「京ちゃん、一つ確認したいんです」
マリコが現れたことを子どものような笑顔で喜ぶ京一郎に、こんなことを聞いてもいいのだろうか。早苗の心はチクチク痛む。聞いたら京一郎の顔を曇らせてしまうかもしれない。でも今やめて帰っても、いつか、いや数日うちには、早苗はきっと確認することになるのだ。
「確認?」
京一郎は笑顔をやめて不思議そうなキョトンとした顔で、ただ聞き返す。早苗は心を決めた。
「そこに箱がありましたよね」
早苗は床頭台のテーブルを指差した。
「京ちゃんが、持ってくるように私に頼んで、私がここに届けた寄木細工の箱です」
京一郎は早苗の指差す方を見る。床頭台のテーブルの上に今は、アルバムとティッシュとコップ、それから箱のあった場所にテルテル坊主があるだけだ。
「箱か」
京一郎はそう呟いた。
「あれにはマリコさんが入っていたんだ」
京一郎はマリコさんが入っていたと言っているが、きっとマリコからもらった物とか一緒に買った物とかが入っていたのだと言いたいのだと思う。箱の中にはマリコとの思い出の何かが入っていたのだろう。でも早苗がここに運んできた時すでに、あの中は空だった。中にあったマリコの何かがどこへ行ってしまったのかはわからないが、今はそのことよりも箱自体の行方が知りたかった。
「箱はどこかにしまったんですか?」
「いや」
京一郎は否定すると早苗の方を向いた。顔は無表情だ。
「それはね、捨てられたんだよ、きっとそこに」
京一郎の顔が斜め下に移動する。京一郎の視線の先にあるのは病室に備えつけのゴミ箱だった。
「捨てたって、どうして、一体誰が」
呆然として早苗は聞く。『誰が』と聞いてはいるが、やったのは弥栄子かなと思う。しかしその名前を口には出さなかった。京一郎の視線はゆっくりと早苗に戻る。
「きっとね、マリコさんのことが、大嫌いな人だよ。ねぇ、もう話題にしたくない」
京一郎はそれだけ言うと、視線を五十年誌に戻した。そして五十年誌のページをぺらりと捲る。話は終わりだと言いたいのか。それ以上は尋ねるなと態度で示されている気がした。早苗は退室の挨拶をするしかなかった。
「お邪魔しました。また午後に来ます」
早苗は車に向かう。早苗の予想はこうだ。京一郎の好きなマリコはあの写真の少女。つき合っていた期間もあった。それがいつからいつまではわからないが。ただ早苗の予想では、男女の関係はそんなに純粋なものではないと笑われそうだが、弥栄子と結婚してから京一郎は一度もマリコに会っていないと思う。
ただ京一郎はマリコとの思い出になるような、マリコを思い出させるような物だけは、いくつか手元に残していたのだと思う。それを弥栄子が知ってしまった。弥栄子はそれら全てを処分した。そして最後に残った、思い出の物が入っていた寄木細工の箱。それさえも弥栄子は腹を立て、ごみ箱に捨ててしまった。
それで正解かはわからない。しかし今まで見てきたもので、そんな予想が導かれていた。
そして早苗は最後にもう一度だけ、院長室に行ってみようと思っていた。調べたいのは執務机の鍵のかかるあの引き出しの中。寄木細工の箱を持ち出した時の記憶では、あの引き出しの中には他にも何かゴチャゴチャと入っていた。具体的に何が入っていたのかと言われると、そこまでは思い出せない。紙だったような気がするのだが、それ以上は全く思い出せなかった。もしかしたら紙だと思っているのも記憶違いかもしれない。
とにかく行って引き出しを開けてみるしかない。あの引き出しには京一郎の私物が入っていると言っていた。鍵をかけるほど大事なもしくは見られたくない私物の中に、マリコの手掛かりがあるかもしれない。
京弥に出くわすかもしれない。事務長とすれ違うかもしれない。しかしどうだっていい。京弥や弥栄子に怒られたらその時はその時だ。
早苗はその日の午後京一郎を訪ねる前に、院長室へ忍び込もうと決心した。
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