44.寄木細工
「あの、その、この奥に何か置いてありませんでしたっけ?」
早苗はアルバムの向こう側、床頭台のテーブル部分の奥の方を指さして、恐る恐るそう尋ねた。京一郎は五十年誌から顔を上げると、早苗の方へ首を回す。眼鏡の奥のその目には一切の感情はない。何を考えているのかわからない不気味さを含んだ視線に、早苗は背筋がゾッとした。
「そうだったかな」
「どこかにしまいました?」
「してない」
京一郎はそれだけ言うと視線を五十年誌に戻した。
「そう……ですか」
早苗は呟くように言うと口を噤む。それから頭の中で、ここに何かあったはず思い出せ、と繰り返す。一体いつからそれはなくなったのだろう。いやその前に、一体どうしてそれはここに置かれたのだろう。一体誰がどこからそれを持ってきたのだろう。早苗は必死に記憶を辿る。
どこから?
全く思い出せそうもない。そこでフッと、テルテル坊主を睨みつけて考え事をしていた早苗の集中が途切れた。
早苗の用事はとっくに終わっているのだ。これ以上ここにいるのは不自然だし、ベッドサイドに立っている必要はない。早苗はアルバムを落ちないように奥へ押し込んだ。
「午後に来ますね」
京一郎にそれだけ告げて病室を出た。
すっきりしないまま早苗は病院の駐車場に向かう。早苗がもっと京一郎に興味を持っていたらと今さら後悔する。もっと気にかけていればそこに置かれた物の記憶が鮮明なうちに、いつの間にか消えてしまった物があると気づけたのかもしれない。もっと早苗が利口で観察力があれば、時間が経ってしまっても、何がなくなったのかをすぐに思い出せるのかもしれない。
駐車場に着くと車のドアロックを解除しようと、ジーンズの尻のポケットに入れた車の鍵を取り出す。開錠のため鍵を車に向けた瞬間、早苗はとある依頼を思い出した。鍵を使って取ってきて欲しいと頼まれた、とある物のことを。
あれはいつだったろうか。随分と前であることは確かだ。今よりはるかに京一郎と意思疎通ができていた頃だ。あの日、京一郎は鍵の束を手にして、それを早苗に見せていた。
『院長室から取ってきて欲しい物があるんだ』
『はい』
『これが院長室の鍵、これが執務机の鍵……』
京一郎が説明をしていく。京一郎が取り出した鍵の束は、自動車会社のマークのついたキーホルダーに纏められていて、下げられた鍵は全部で五つ。自宅、車、院長室、院長室の金庫、院長室の執務机。その中でも今回の頼みごとに必要な鍵は、院長室の扉と執務机の二つであった。
『執務机の鍵のかかる引き出しに、木製の箱が入ってるんだ。それを持ってきて欲しい』
『木の……箱……ですか?』
『独特な模様の箱だからすぐにわかるよ。病院の大事な書類や現金は金庫だ。その引き出しは私物置き場にしてるんだ。その木箱も空だし。私は動けないから、取ってきてくれるとありがたい』
『じゃあ見てきますね』
早苗は鍵束を受け取って院長室に入った。何も考えていなかった。言われた通りに院長室に入り、執務机の鍵つき引き出しの鍵をあけた。引き出しを引っ張り出してみると、京一郎の言う箱というのはすぐにわかった。独特な模様と京一郎は言っていたので、これで間違いないと思った。引き出しの一番手前に、ちょこんと置かれた名刺入れくらいのサイズの箱。京一郎は空だと言っていたが、何も言われなければ、これには名刺が入っていると思うだろう。
早苗はそれを持って院長室を出た。病室へ戻る道すがら、箱を何度か上下に振ってみた。音もしないし中で何かが動いたり転がったりしているような感触もない。言った通り空なのだろう。
『これですか?』
病室に着いてベッドサイドに立った早苗は、両手の平で包むように箱を手の上にのせて、京一郎に向かって差し出す。
『ああ、これだ。ありがとう』
京一郎はそう言って大事そうに両手で受け取ると、膝の上にのせて箱の蓋を開けた。京一郎が言った通り、早苗が感じた通り、箱の中は空だった。京一郎は五秒間ほどだろうか、空箱を見ていたが、その後ゆっくりと蓋を閉めた。
『綺麗な箱だろう』
早苗は同意を求められるように話しかけられた。箱の蓋の表面には作るのに手間のかかりそうな、細かい柄の幾何学模様が面一杯に描かれていた。本体の方も同じ模様が描かれている。綺麗と言えば綺麗なのかもしれないが、早苗はただの木の箱としか思えず、さして興味がわかなかった。
『そうですね。綺麗です』
相手は義父、同意の返事だけはした。
『これは寄木細工なんだ』
早苗はその名称を以前テレビか何かで聞いたことはあった。
細かく切った色の違うなん種類かの木材を貼り合わせ、ああいう模様を作っているのだと、茶色や薄茶色や白色で作る不思議な幾何学模様の作り方を思い出した。
それよりも鍵を返そうとしたら、それは早苗が持っていて欲しいと言われた。また何か頼むかもしれないし、京一郎は一人で院長室まで行くのは大変だし、早苗のことは信用しているからと。そして京一郎の鍵束は早苗が管理することとなった。そう、この時早苗が預かったのは院長室の鍵だけではなかったのだった。そしてそもそもそれが、早苗が院長室の鍵を持つことになった切っ掛けだった。早苗は忘れていた。そんな出来事をしっかりと忘れていた。
京一郎はその日、受け取った木箱を床頭台のテーブル部分の真ん中にのせた。しばらくそこにあったと思う。のちにテーブル部分の一番奥隅が定位置となった。木箱が物を置くことが多い邪魔な場所にあったので、テーブルの奥へと段々と押しやられたのかもしれないし、京一郎か看護師が移動させたのかもしれない。
そして奥に置かれたそれはいつの間にか消えた。そしてそれが消えたことに早苗は今まで全く気づかなかった。
読んでくださってありがとうございました(__)




