41.赤い表紙のアルバム2
誰もいない静かな休日の午後。早苗はリビングで紅茶を飲みながら、ただぼんやりと時間を過ごしていた。明日、院長室へアルバムを取りに行く。今回は京一郎の依頼だから堂々と入れる。もし見つかっても嘘の理由を考えなくていいので、その点が気楽でいい。
しかし先日の京弥との遭遇は驚いた。咄嗟に言い訳を考え逃げおおせたが、もうあんな心臓が破裂しそうな目には二度と逢いたくない。マリコを調べるための院長室侵入はもうやめようと思った。私物の中は色々見させてもらった。もうこれ以上調べる手段はないはず。そして明日アルバムを京一郎へ届ければ、京一郎はそれを開けて見る。京一郎はどのページのどの写真を見るのか。それでどの女性がマリコなのかわかる。わかったらそこから上手く話を持っていって、さりげなく、京一郎を怒らせないように気をつけながら、マリコの正体を教えてもらおう。早苗はそう決めると立ち上がり、飲み終えた紅茶のカップをキッチンに運んだ。
夕食の準備を始めなければならない。今晩は弥栄子がこの家に夕食を食べにやってくる。京弥も今日は早めに帰ってくるだろう。先週の日曜日の夕食、京弥は弥栄子から逃げた。二週連続で今週もまた逃げるわけにはいかないことぐらい、京弥もよくわかっているはずだ。
早苗は溜息をつく。せっかくの週末の晩御飯なのに。どんな料理を用意しても楽しく味わうことのない、早く終わって欲しい、憂鬱な食事の時間が待っている。
月曜日の午後。早苗は京一郎に頼まれた通りに院長室へやって来た。そして頼まれた物で間違いないであろう、あちこち擦り切れかけた赤い布表紙のアルバムを手にする。
高校以前の写真は全て見た。大学時代以降の写真は素早くページを繰り、ざっと見るだけで終えたが、見ることは見た。収穫はなかった。でもマリコはこのアルバムの中にいるとわかった。果たしてマリコはどのページにいるのか。それがこれからわかる。
病院へやって来て一階で乗り込んだ院長室へ向かうエレベーターから、今こうして病室の階でエレベーターを降りるまでの空間で、早苗は顔見知りの誰にも会わなかった。院長室に堂々と入れるこんな日に限って、ここまでの道のりが好調だ。こういう運の使われ方がなんだか腹立たしい。
早苗は京一郎の病室前に着くと、すでに開け放してある扉をノックしてから病室へと入った。
「こんにちは」
病室へ入ってすぐに背後から話しかけても、車椅子に乗り窓の外を向く京一郎からの返事はない。いつものことだ。早苗はバッグと脱いだコートを椅子の上に置くと、アルバムだけ持って京一郎に近づいた。
「頼まれたアルバムってこれですか?」
早苗は京一郎の横に立つと少し上体を屈めて、京一郎の胸元にアルバムを差し出した。京一郎は早苗を見上げると同時に左手でアルバムを受け取った。無言で受け取ったがこれで間違いないだろうと思う。
「今、見られますか?」
「ああ」
「テルテル坊主は退けていいですか?」
「ああ」
京一郎の膝の上には小さな座布団と、その上にテルテル坊主が乗っている。早苗はテルテル坊主を左手で座布団を右手で掴んだ。そして窓の額縁に座布団を移動させ、その上にテルテル坊主をそっと乗せた。テルテル坊主の顔は山とは逆の、京一郎の方へ向けた。
「テルテル坊主には山を見せますか?」
今日は天気がいい。山がよく見えた。京一郎が毎日のように話題にする浅間山もよく見える。
「このままでいいよ」
京一郎は手にしていたアルバムを膝の上にのせると、表紙の縁に指を引っかけて、表紙をゆっくりと捲った。早苗は京一郎から離れると、洗濯物の片付けを始める。京一郎の様子を気にしていませんと言わんばかりにベッドの周りをちょこまかと動き回るが、実は横目でチラチラと京一郎の行動を見ていた。どこのページまで捲れば京一郎の手は止まるのか。それが気になって仕方がなかった。
まずは一ページ目。京一郎の両親と思われる写真。そこで京一郎の手が止まった。京一郎は捲らずに四枚の写真をじっと見ている。早苗は院長室で見た一ページ目の写真を思い出す。写っていた人物たちの中で女性は、おかっぱ頭の女の子と家族写真の母親と娘。早苗はおかっぱ頭の女の子と家族写真の娘が同一人物で、京一郎の母親・郁ではないかと予想していた。もしその予想が正しいなら家族写真の母親の方がマリコということになる。京一郎の祖母の名前は、聞いたことがないので知らない。しかし自分の祖母を名前に『さん』づけで呼ぶだろうか。それはないと思う。それでは早苗の予想自体が間違っていたら。この写真の少女が郁ではないとしたら。この写真の少女がマリコなのだろうか。
しかし京一郎がそのページを見ていたのは十数秒ほどであった。そして次へとページを捲った。開くとそこには見開きで二ページ目と三ページ目の写真が貼られている。京一郎はそこで再び手を止めた。二ページ目は京一郎が小学生だったころの写真。三ページ目は中学時代の写真。京一郎はどちらのページを見ているのか。洗濯物を所定の場所にしまい終えた早苗は、動きを止め思わずじっと京一郎を見てしまった。しかし京一郎の顔の向きは曖昧で、どちらのページを見ているのかわからない。そのまま両方のページの真ん中あたりを見ていること十数秒、京一郎は膝の上のアルバムの位置を、ほんの僅かだが左手で押してずらした。二ページ目が見易いようにずらしたのだ。
見開きになったアルバムは、表紙と一枚分しか厚みのない二ページ側よりも、残りの全ページがある三ページの側の方に厚みがある。あまりずらしてはバランスが悪くなり、アルバムが三ページ側から床に滑り落ちる。だから京一郎は気にしていなければわからないほどのほんの僅かだけ、位置をずらしたのだろう。しかしアルバムが気になって仕様がなかった早苗の目は、僅かな動きのそれを見逃さなかった。
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