4.浅間山へ行こう
「お義母さん、ただいまスーパーから戻りました!」
早苗は玄関ドアを開けると、家の奥に向かって大声で言った。どうせ鍵は開いてるから、わざわざインターホンを鳴らさなくていいと言われているのだ。
弥栄子は外出時か、在宅中の夜中しか玄関に鍵をかけない。元々のこの地域は鍵などいらないほど顔見知りが多くて、犯罪もなかったのだそうだ。鍵だ、セキュリティだ、などと言われるようになったのは最近のこと。それなので弥栄子は、『今さら慣れろなんて無理』と言って、まず玄関の鍵はかけない。
「玄関に置いといて!」
家の奥からそう言う大声が届いてきた。早苗に買い物を頼むと大体こうだ。本人が出て来ることなどまずない。礼を言われたこともお金を渡されたこともない。ただ、お金に関しては早苗からは言いにくい部分もある。子どもの学費援助をしてもらっているから、あまり煩くは言えないのだ。
早苗は上がり框の上に商品の入った袋を置くと、外に出てドアを閉めた。
早苗は駐車場を突っ切り、自宅に向かって歩き始めた。自宅はすぐそこ、十数メートル離れているだけだ。この二世帯は敷地内同居だから。
元は弥彦夫婦と京一郎一家の敷地内同居であった。弥彦夫婦が夫婦用、京一郎一家がファミリー用を建てて住んでいた。後に弥彦夫婦が亡くなり、弥彦夫婦の家が空き家になったが、京一郎夫婦はそちらに移動せずそのまま住んでいた。京一郎が入院し弥栄子一人になったので、弥栄子が夫婦用に作られた元弥彦夫婦の家に移り、京弥家族(京弥と早苗と亮弥)の三人が、ファミリー用の京一郎夫婦が住んでいた家に引っ越してきたのだった。
自宅に着くと早苗はスーパーで買った食材を冷蔵庫や戸棚にしまっていく。中年女性の早苗にとって、食べ盛りの男子・亮弥の食事の量は半端ではない。こんなに食べるとは思わなかった。故に食料の買い物は大荷物で、家での整理に五分以上かかるのだ。
全ての物を片付け終わると、疲れを感じた早苗は息を吐きながら、食卓の椅子にストンと腰を下ろした。一旦休憩だ。何もせずただ数分間だけぼんやりしたかった。専業主婦のくせに怠惰だと非難されそうだが、大荷物を運んだ上に弥栄子の声のストレスにさらされたのだ。これくらいの時間の無駄遣いは許して欲しい。そう思った。
ハツコさん、エイコさん、サチさん、スズエさん。スーパーで会った四人の女性だ。いずれも以前早苗が弥栄子の足として一緒に出かけた時に、商業施設等でばったり出くわして紹介されて顔を覚えた、近隣に住む女性たちだ。
どの名前もマリコではない。京一郎の『マリコさん』には該当しない。そう考えてみて、自分は何を馬鹿馬鹿しいことを確認しているのか自嘲した。これからも南雲家周囲の女性の名前をこのように次々と、マリコかどうか頭がチェックしてしまうのだろうか。
京一郎には勝手に早苗をマリコと呼ばせて、早苗はそれを右から左へと、耳の中を素通りさせておけばいい。この名前にこれ以上の興味を持たない方がいい。この興味こそ時間の無駄な浪費ではないか。例えマリコという名の人物が見つかったとしても、それが京一郎の言うマリコなのかわからない。どうせ京一郎が説明してくれなければ、多分永久にマリコの正体はわからないのだ。
それは頭ではちゃんとわかっている。だが、あの京一郎の、マリコの名を呼ぶ時の嬉しそうな声を思い出すと好奇心がくすぐられる。さらに、弥栄子よりも愛している女性だったら面白いなどと、弥栄子に対する意地の悪い妄想も思い浮かべてみる。でもきっと。
京一郎はきっと弥栄子よりもマリコを愛している。早苗はそう確信するかのように思ってから、鼻から少し勢いのある息を出した。ここは誰も見ていないと安心できる場所だから、弥栄子を小馬鹿にした態度を取ってやりたくなったのだ。
「洗濯物を置いておきますね」
早苗はベッドサイドの収納に、畳んだ洗濯物をおさめた。今日はよく晴れて風も強かったせいか気温の低さにも関わらず、洗濯物は午後二時にはすっかり乾いていた。スーパーから帰宅後ベランダから取り込んで、すぐに病院に持って来たのだ。
洗濯物をしまい終わりそれを入れてきた布バッグを畳むと、早苗は京一郎を見た。京一郎は電動車椅子に座って窓際に佇んでいた。顔は窓の外を見ている。病院スタッフの誰かが京一郎を車椅子に移動させてくれたのだろう。
「今日は山がよく見えますね」
早苗は京一郎に近寄ると、窓の外を見るその横顔に話しかけた。窓の外にははるか彼方の山々の稜線が見える。その稜線の中で飛び抜けて高く、真っ白な雪に覆われ勇壮な姿で輝いているのが浅間山だ。
「浅間山だ」
早苗が頭の中で考えている山の名前が、京一郎の口から零れ出た。
「綺麗な山ですね」
早苗は当たり障りのない言葉を選んだ。
「今度、夏になったら、マリコさんを連れて行ってあげるよ」
「私をですか?」
「ああ。……あ、でも、行ったことがあるか?」
「いえ」
早苗は浅間山に行ったことはない。ただこの辺りに住んでいれば、天気のいい日は毎日その姿が見られるのだが。
「京ちゃんは行ったことがあるのですか?」
京一郎が元気だった頃に早苗はそんな質問をしたことはないし、実際京一郎が行ったことがあるかどうかは知らない。しかし京一郎は浅間山に行ったことがあるのではと早苗は思った。
しかし京一郎から即答はない。京一郎は黙ってしまった。
「京ちゃん?」
数十秒後、早苗は呼びかけてみた。
「浅間山」
京一郎は窓の外を見たまま再び山の名前を口にした。
「夏になったらマリコさんを連れて行ってあげるよ」
どこかへ飛んでいた思考が数十秒前に戻ったのか、京一郎は再度そう言った。
「楽しみにしてますね」
早苗は先程とは違う言葉をかけた。
「そうだ、鬼押出しを歩こう。溶岩を見せてあげるよ。不思議な光景だよ」
京一郎は黙り込まずに話を続けた。
「溶岩? 怖そうですね」
「怖くないさ。面白いさ」
「鬼押出しは浅間山のそばなのですか?」
「麓だよ。天気がいい日がいいな。山がよく見える。お昼には饂飩もご馳走しよう」
「饂飩ですか? 私、饂飩は大好きです」
「じゃあ、お土産の饂飩も買おう」
早苗はベッドそばの椅子に移動すると、来た時に椅子の上に置いたダウンジャケットを手に取りそれを羽織った。そして京一郎に声をかけるために京一郎の隣の位置に戻る。
「それでは私はこれで」
早苗がそう言うと、京一郎は顔を斜めに上げ、視線を山から早苗に移した。
「どこへ行くんだ?」
「駅に行くんです」
早苗は急に行き先を聞かれて、正直に駅だと言ってしまった。
「なんで駅に行くんだ?」
京一郎はなおも聞いてきた。駅に行くのは息子の亮弥を迎えに行くためだ。しかし早苗をマリコと思っている京一郎に亮弥の名を言ったら、京一郎はどう反応するのか。変な刺激になって混乱して怒ったりはしないか。
ちょっと用事があって、なんて言って逃げようとしたら、なおうるさく突っ込んできて、答えに詰まればなぜ嘘をつくと怒るだろう。なんて面倒臭い状況なのか。
早苗はどうしようかと困ったが、どうせ怒られるなら、胡麻化さず駅に行く理由を正直に言ってみようと思った。
「亮弥を迎えに行くんです」
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