39.座布団
危機一髪だった。足がガクガクする。心臓のドキドキもまだ収まらない。早苗は抱えた本で左胸を押さえながら、廊下をエレベーターへ向かった。
エレベーターの上りを呼ぶボタンに、本を持っていない方の手、左手を伸ばして気づいた。まさかそこまでの緊張とは思っていなかった。ボタンを押そうとしている人差し指が小刻みに震えている。指をボタンに乗せて力を込めると同時に口から細く長く息を吐いて、震えをおさめようと体全体の力を抜いた。そしてどうにかあの緊急事態を乗り切れたのだと、自分になん度も言い聞かせた。しかしそう思い込もうとすればするほど、今度は別の心配が頭の中にじわじわと広がってくる。
このところ週に二回は院長室に来ている。早苗の行動を早苗が気づかぬうちに、見ていた誰かがいるのでは。そしてそれを、悪意を持って京弥に話しているのでは。もしそうだったら今日院長室で出くわしたことで、京弥の早苗の行動に対する不信感は爆上がりではないか。早苗の行動がおかしいと案外しつこく食い下がったのも、そのせいもあるのではないのか。
それ以前にあのアラ還おじさんの、ヘラヘラした無害そうな作り笑顔の事務長には、侵入日に二回も廊下で会っている。京弥に早苗の行動を教えたのは事務長では。いや、事務長自体が京弥に早苗を警戒するように進言したのでは。
あの弥栄子と非常に気が合っているということ以外、早苗は事務長がどんな人物か知らない。弥栄子の手下なんて早苗にいい感情を抱いていなくても不思議はない。
そこまで事務長を疑ってみたが、一人でエレベーターを待って少しずつ冷静になってくるに従って考え過ぎだと思えてきた。
早苗の不審行動の報告は京弥へよりも先に若しくは同時に、早苗の天敵、姑である弥栄子へいくだろう。話を聞いたら弥栄子の性格は、黙っていられない。絶対に早苗を呼び出し、京弥を巻き込み、納得するまで追求する。弥栄子が京弥も巻き込んで大騒ぎをしていないところをみると、事務長は早苗に会ったことをまだ弥栄子に言っていなさそうだ。それならきっとまだ京弥の耳にも入っていないだろう。
それに弥栄子だ京弥だ事務長だと、そんな人たちを今さら気にしたって仕様がない。バレたらバレた時のこと。なるようにしかならない。
エレベーターがやってきて扉が開いた。早苗はその閉所感の強いボックスに足を踏み入れる。京一郎の病室のある階のボタンを押した。扉がゆっくりと閉まる。
乗っているのは早苗一人。早苗はエレベーターの階数ボタンの横の壁に背を預け、目を瞑った。壁に囲まれたたった一人という環境が頭を空っぽにさせてくれる。
院長室でのことを忘れて、京一郎の相手をすることに、しっかりと頭を切り替えなければ。マリコとして不審な言動をしないよう、気をつけねばならないのだから。
「こんにちは」
早苗は京一郎の病室に足を踏み入れた。声をかけたが京一郎は無言のまま窓の外を見ている。早苗は歩み寄ると京一郎の隣に立った。京一郎はいつも通り膝にテルテル坊主を乗せて、晴れた窓の外を見ていた。
「今日は山が見えますね」
「そうだな。浅間山も見えるな」
京一郎は首を斜めに動かすと早苗を見上げた。
「おや、五十年誌かい?」
「え?」
早苗は自分の胸元を見る。エレベーターの中で気を落ち着けたと思っていたのだが、どうやらまだ動揺していたらしい。いつもは椅子にバッグとコートを置いてから京一郎に近寄るのに、今日はそのまま近づいてしまった。よって、先程院長室で本を抱えたそのままの状態で、京一郎の横に立ってしまったのだ。
「あの、読まれますか?」
早苗はどうしていいかわからず尋ねてみた。
「読みたいと思っていたんだ。マリコさんは気が利くね」
「あ、ありがとうございます」
本当に読みたいと思っていたのだろうか。それとも成り行きか。それよりも京一郎は、自らがマリコと呼ぶ早苗をどういう人間として認識しているのか。マリコが五十年誌を病室に持って来たというあり得ない状況に、いささかの疑問も持っていないようであるし。
「どこに置いておけばいいでしょうか」
「今すぐ読むから」
京一郎はそう言うと、テルテル坊主を窓の額縁に置いた。早苗は京一郎の膝の上に五十年誌をそっと置いた。そしてオーバーベッドテーブルの上にある眼鏡を取って来て、京一郎の顔にはめた。
「ありがとう」
京一郎はゆっくりとページを繰り始める。早苗はバッグとコートを椅子に置くと、自分の仕事を始めた。
早苗は午前中から裁ちバサミで布を裁っていた。白地に細かく鞠や花が描かれた、華やかな和柄の美しい布。長方形に裁断した布を半分に折って正方形にし、針と糸で正方形のヘリを縫いつけ始めた。
綿の入れ口以外を縫い終わると裏表を引っ繰り返し、袋状となった中に綿を詰めていく。綿を詰めたら綿の入れ口を閉じる。これで座布団の本体はでき上がり。それから座布団の真ん中と四隅に薄紫の糸で房をつけた。これで座布団は完成だ。
座布団の一辺が十センチほどと小さいので、せっかくのかわいらしい柄が沢山は出ないが、座布団中心にはできるだけ綺麗な柄が配置されるように、気を使って裁断したつもりだ。でもこのちょっとした気遣いだけで、京一郎は喜んでくれそうな気がしていた。
午後に持っていこうと早苗はそれを、取っ手つきのビニール袋に入れてバッグの横に置いた。
「こんにちは」
病室に入るといつも通り、京一郎はテルテル坊主を膝にのせて山を見ていた。そしていつも通り、早苗の挨拶には返事をしなかった。早苗はバッグを椅子の上に置くと、京一郎に近づく。
「今日も山が見えますね」
早苗は京一郎の隣に立って話しかける。それで初めて京一郎は早苗を見上げる。
「浅間山だ」
雪を被った浅間山がよく見える。
「これ作ってみたんです。どうでしょうか」
早苗は手に持っていたビニール袋の中から小さな座布団を取り出した。そして京一郎に向けて少し前屈みになると、テルテル坊主の横に座布団を置いた。京一郎はじっと座布団を見ている。
「テルテル坊主の座布団です。窓際やテーブルの上にじかに置いては寒そうで」
京一郎は座布団を左手に持って、座布団を色々な方角から見ている。やがて膝の上に座布団を戻すと、その上にテルテル坊主をのせた。
「これはいい、これはいい」
下を向いていて表情はよく見えないが、声がはしゃいでいる。どうやら気に入ったとみていいようだ。
「柄もいい。これはマリコさんのマリだ」
「私のマリ?」
「そうだよ。マリコさんは、『ボールの、鞠の、子』、と書く鞠子だろう」
京一郎は左手人差し指で宙に大きく、『鞠』という漢字を描く。
『え?』と言いそうになるのを、早苗はすんでのところで呑み込んだ。そのせいで変な顔をしているかもしれないが、京一郎はテルテル坊主を見ているので大丈夫だろう。以前も思わぬ話に『え?』と言ってしまい京一郎を落胆させたことがあるので、不要な声を出さないよう、気を抜かないようにしていたのだ。
早苗はごく普通に漢字三文字の『真理子』とか『麻里子』とかに、頭の中で勝手に変換していた。それ故に、マリコの名前は鞠子、と言われたときは意表を突かれた。しかし京一郎が早苗をマリコと思っている以上、マリコは自分の名前だ。驚いているような反応をしてはいけない。さも当たり前という顔をしていなければ。
早苗は仕事に戻る。京一郎のベッドの上には、開かれた五十年誌が眼鏡をのせて、無造作に置かれている。山を見ずに五十年誌を見ていた時間も今日はあったのかもしれない。開かれたページには病院の創設者・南雲弥彦の写真が、一ページを丸々使って掲載されていた。
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