38.嘘
「そこには親父の私物が入っているんじゃなかったか?」
早苗の足元の開いている扉の中には、確かに京一郎の私物が入っている。
「ええ、探し物を」
早苗は咄嗟にそう言った。何も思いつかず口からただ出た言葉で、やっと聞き取れる程度の小声になってしまった。
「探し物?」
ここは院長室、当然だろう。京弥のさらなる、早苗がここにいる理由の追求だ。まずい行動を見つかってしまったように見える、早苗の自信なさげな小声もよくなかったのか。聞き返す京弥の、不審な者を見るような目つきは変わらない。
今日は弥栄子が出かけていて気分がよかったのに、院長室の侵入を京弥に見つかるなんて酷く運が悪い。
この部屋から逃げたいけど、ああして入り口を塞ぐように立たれていては、廊下へは逃げられない。窓から飛び降りるわけにもいかない。
とにかく適当なことを言って誤魔化して、この場を切り抜けねばならない。早苗は必死に考える。京弥が納得するような、反論しなさそうな嘘を。
自分がここにいなければならない理由を考えろ。
「早苗になんの探し物があるんだ? ここは院長室だぞ」
早く答えろと言わんばかりに畳みかける、次の追及の言葉。早苗は院長室の入り口付近にいる京弥から目を離し室内を見まわす。何か理由として使えるものはないか。焦れば焦るほど頭が回らなくなるのに鼓動はおさまらず、額や首筋や背中や腋がじっとりと汗ばんできた。
これ以上は待たせられない。でも京弥に本当のことを答えるわけにはいかない。その時、早苗は本棚の中の一冊の本が目に入った。そしてそれに目が釘づけになりそうになったが、慌てて目を逸らした。感づかれてはならない。視線を京弥に戻し、そして必死に一つの話を頭の中で作り上げる。
閃いた。これだ。これが使えるかもしれない。早苗に天の助けが降りてきた。
「お義父さんから頼まれて」
早苗は少しかすれた声で言った。早苗を見咎めたい相手をつけ上がらせる、みっともない声だ。緊張が解けてすぐで、声が上手く出せなかったのかもしれない。
「頼まれたって……なんだそれは?」
京弥の顔が、不審な者を見る表情から、小馬鹿にするような笑いを浮かべたものに変わった。京弥は言っていた。京一郎は話しかけても『そうか』しか言わないと。そんな京一郎が早苗に頼み事などするはずがないと思っているのだろう。
早苗が院長室に入り込んだ理由は、京弥が院長となった病院で、早苗が弥栄子よりも有利になりたいため何かを企んでいるからだとでも考えているのか。まあ、もしそう考えているならそれは全くの方向違いではあるが、『企んでいる』はある意味当たっているのだが。
最近弥栄子が早苗について京弥に愚痴る時間は、敷地内同居初期と比べ格段と増している。京弥は早苗の言い分よりも弥栄子の言い分の方に耳を傾け理解を示しているのだから、京弥がこんな場所に一人でいる早苗を疑うのは当然であろう。
「びょ、病院の五十年誌を見たいと」
今度はかすれた声ではないが、逆に不自然に大きな声で言ってしまった。しかもどもって。京弥が再び眉根を寄せる。
「五十年誌?」
どれくらい前だったか正確な年は忘れたが、病院が五十周年を迎えた時に京一郎の発案で編纂された。病院の設立理念、五十年間の歩み、開院当時から今日までの関係者や院内・外観等の沢山の写真。弥栄子が『お父様の業績が本になった』と大喜びし、病院関係者や地元の有力者、自治会等に配ったと聞いた。
「五十年誌って、それはあるとしたら本棚だろう。私物入れにはないだろうに」
早苗はその答えも考えついていた。
「本棚のは院長室用で持ち出してはいけないと思ったのよ。お義父さんの私物の中に、お義父さん個人用のがないかと思って」
京弥は鼻で笑った。
「それで、親父が本当にそんな物を読みたいって言ったのか? あの状態で、そんなはっきりと言えそうもないけどな」
この一言で、早苗はカチンときた。確かにこれは早苗が考えた嘘だ。京一郎に頼まれてとった行動ではない。でも京一郎は『そうか』しか答えられない状態ではない。それは毎日会話を交わしている早苗がよく知っている。
「確かにお義父さんが頼みました! あなたこそ、よく知りもしないで!」
京弥が顔をしかめる。機嫌を損ねたとわかった。というか常日頃から彼は弥栄子以外の家族に対してそこそこ不機嫌なのだ。仕事の激務で疲れているというのもあるのだろうが、早苗たちの思考回路が理解不能というのが彼の本心ではないかと、早苗は想像している。
「じゃあ、どんなだって言うんだ?」
挑むように聞かれた。
「私とは話をします」
早苗は京弥を睨みつけて、距離を感じさせるように、わざと丁寧な言葉で話す。
「へぇ、どんな」
「浅間山に遊びに行った話をしてくれます」
早苗をマリコと勘違いしてだけれど。
「車の運転に気をつけてとか気にかけてくれます」
一カ月前偶々、亮弥の送迎が話の流れの会話で、だ。あれから京一郎とはマリコとしてばかり接していたから、今も亮弥の話題が通じるかはわからないが。
夏になったら浅間山に登ろうと言われた。幸せか聞かれた。一緒にテルテル坊主を作った。リボンを喜んでくれた。
「あなたももっと、ちゃんと話してみたら?」
京弥の挑むような視線は変わらない。早苗は京弥から目を逸らさぬまま、私物の入った収納の扉を探すように右手を伸ばすと、掴んだそれをバタンと閉めた。
「五十年誌、持っていけばいい」
忙しい京弥は、これ以上は時間の無駄と思ったのか、目を逸らすと早苗の横を通り過ぎ、部屋の奥の執務机に向かった。そして執務机の椅子を引いたが座らずに、立ったまま机の引き出しの一つを開けた。早苗はそれを見て、あの下に隠れなくてよかったと思った。あそこにいたら絶対に見つかるし、それこそあんな場所で縮こまっていては言い逃れができない。早苗は心の中で深くため息をついた。今日の早苗は、思ったほど運は悪くない。今日は運がよい方だ。
早苗は本棚に近づくと五十年誌を取り出し、胸にぴったりとつけて抱えた。
「もうすぐこの部屋の片づけが始まる。その後は俺の荷物が入る。その時に鍵も替えるから、本はそれまでに戻すか、間に合わなければ俺に渡してくれ」
背後から京弥がそう言う声が聞こえた。
「わかったわ」
早苗はソファの上に置いたバッグを引っ掴むと、無言で院長室を後にした。
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